日本で労働環境が問題視されるようになったのは、ここ数年の話ではありません。
かつて、『文学』という手段で社会主義、共産主義的な革命をもたらそうとした人々がいました。そのような文学を『プロレタリア文学』と呼び、その代表格とされるのが「小林多喜二」です。
プロレタリア文学者の中でも小林は作品の人気も当然のことながら、あまりに早く、そして壮絶な最期を迎えたことから非常に知名度の高い文学者です。
今回は小林多喜二の
- 小林多喜二の生い立ちとは?
- 小林多喜二の経歴は?
- エピソードから見る小林多喜二の性格とは?
をご紹介します!
ポイントは以下の通りです
- 幼少期から労働者の過酷な実態を目の当たりに。現状を変えようという思いは当時から強かった?
- 三・一五事件をきっかけに立ち上がった小林。しかし、この作品が後の悲劇へと繋がってしまう。
- 恋人タキに、憧れの文豪。小林は想うものへかける情熱が一際強い人物だった?
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小林多喜二の生い立ちとは?
小林多喜二は1903年(明治36年)に秋田県で生まれました。
- 叔父の事業失敗により、家計は決して裕福ではなかったようです。
- しかし、四歳の時に叔父の計らいによって小樽に移住し、伯父の工場に住み込みで働きながら小林は小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へと進学しました。
- 芸術関連に興味関心を持ち、絵画の制作や文芸雑誌への投稿を行うようになっていきます。
また、実家を含む自身の境遇や実家周辺の環境から小林は幼少期より労働者の環境を問題視しており、小樽高等商業学校進学後の小林は労働運動へ参加するようになっていきます。
しかし、当時の日本は治安維持法によってこの手の運動を厳しく取り締まっており、政府を批判するような動きを見せれば特別高等警察(特高警察)に逮捕されるような時代でした。
小林の代表作のひとつ『一九二八年三月一五日』は多くのマルクス主義者達が検挙され、市ヶ谷刑務所に収監された三・一五事件を元に書かれた物で、特高警察を非難するこの作品をきっかけに小林は要注意人物としてマークされるようになります。
小林多喜二の経歴は?
小林は二十九歳という若さでこの世を去っており、残された作品も決して多くはありません。
しかし、現代の労働問題に通じるものがあるとして、彼の作品は今でも高い人気を誇っています。
主な作品には、以下の物が挙げられます。
- 小説『一九二八年三月十五日』(1928年 昭和3年)
- 小説『蟹工船』(1929年 昭和4年)
- 小説『不在地主』(1929年 昭和4年)
- 小説『党生活者』(1932年 昭和7年)
いずれも労働問題・社会問題に関係している作品となります。
- 特に『蟹工船』は小林の代名詞とも呼べる作品となり、プロレタリア文学の代表作としても度々取り上げられています。
- ですが当時、この作品は国家を侮辱しているとして作者である小林はさらに強く政府にマークされることとなりました。
- 加えて、政府にマークされるような作品を書いていること、作品発表に伴い、小林が勤務先を発表していたことから彼は勤めていた北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店を解雇されてしまいます。
その後、小林は特高警察から身を隠しながら労働運動をする地下生活に突入するのですが、1933年に特高警察に逮捕され、同日、彼は残虐な拷問の末に死亡します。
エピソードとしての小林多喜二の性格とは?
小林多喜二の面白い・独特なエピソードとしては、以下の物が挙げられます。
- 小林は『小説の神様』こと志賀直哉の大ファン! 手紙を送り、作品を送り、さらには自ら会いにいく押しの強い男だった。
- 「闇があるから光がある」の名フレーズで有名な小林のラブレター。恋人タキと小林の悲恋とは。
上から順番に紹介していきましょう!
1.志賀直哉と小林多喜二
小林は代表作「小僧の神様」になぞらえて「小説の神様」と呼ばれる文豪、志賀直哉の大ファンでした。
在学中から志賀の作品を読み、志賀の作品から文学を学んだ小林は何度も志賀に手紙を送り、さらには自身の作品(蟹工船)を送って感想を求め、ついには本人に会いに行った程。
太宰治が芥川龍之介の大ファン過ぎて色々とこじらせていたのは有名な話ですが、小林はまさに太宰の逆方向に突き抜けていったファンであるとも言えます。
志賀はそんなグイグイ来る小林をしっかりと認識しており、小林が自宅を訪れた際には息子を連れて三人で遊園地に行った上に一泊泊め、小林の死を知った際には香典と弔文を贈り、日記に彼の死を記す(志賀の誕生日と小林の命日が同日だった事も理由でしょうが)程には好意的に見ていたようです。
小林の拷問死は様々な立場の者に衝撃を与え、志を同じくする仲間達のみならず、多くの人々がその死を嘆いたそうです。明るく、話し好きだったという小林には人を惹き寄せる才能があったのだと思います。
2.身分差ゆえに実らなかった恋?
何故か文学者は女性絡みの問題をよく起こすのですが、小林はその点では非常に大人しい女性歴の文学者です。
諸説ありますが、小樽時代の小林の恋人タキは『小林多喜二が唯一愛した女性』として有名な人物です。
(小林絡みの人物には妻なのかハウスキーパーなのかはっきりしない者がいるため、『諸説あり』です)
タキは父親の事業の失敗によって小料理屋「やまき屋」で酌婦(娼婦に近い立ち位置です)をしていた貧しい女性で、小林が彼女の美しさを噂に聞いて会いに行ったのが出会いでした。
タキに惹かれ、小林は何通もの手紙を彼女に送ります。
- 中でも有名なものが「闇があるから光がある」というフレーズから始まるラブレターです。
- どんなに辛くとも、その先には幸せが待っている。今は辛くとも、きっといつか幸せになれる。
- だから頑張って欲しい。頑張る君を愛する存在がいることを忘れないで欲しい……という真っ直ぐな想いはきっとタキにも届いたことでしょう。
そして小林は何とかタキを救い出したいと彼女を身請けし、ふたりは家族となります。
結婚ではなく、まずは家族として実家に引き取りました。
しかし、タキは銀行員の小林と無教養で身を売って暮らしていた自分では身分が釣り合わないということ、さらには下に弟妹達もいて、いつ小林に迷惑を掛けてしまうか分からない状況に耐え切れず、家を飛び出してしまいます。
その後、二人は何度か再会し、東京で一度は同居するのですが、タキは「地獄から救ってもらって、これ以上は望めない」と主張し、二人が一緒になることは叶いませんでした。
結局夫婦の関係になることは出来なかった二人ですが、小林が労働者の環境を変えるために戦ったのは、金で自由を奪われ、無理やり働かされていた彼女の存在も理由のひとつだったのでしょう。
小林多喜二の性格や経歴は?生い立ちとエピソードが面白い まとめ
最後に、小林多喜二についてまとめておきます。
・ 小林多喜二は労働者の立場を描く作品『プロレタリア文学』で有名な人物である。
・ 小林多喜二は労働運動に参加し、社会を変えようと活動していた思想家であった。
・ 思想運動をしていたことから、小林多喜二は若くして命を落とすこととなった。
・ 小林多喜二は愛する者に対してはどこまでも真っ直ぐな人間であった。
小林多喜二の作品、特に『蟹工船』は日本経済の悪化に伴い、2000年代に入って再び注目を集めています。
国際的にも評価が高く、多数の言語に訳され出版されています。
- 今は権力の暴走を防ぐために様々な法整備がなされ、少なくとも思想を理由に拷問死させられる時代ではありません。
- しかし、小林が文字通り命懸けで書いたこの物語は時代に関係なく、胸に響くものがあります。
- 映像化・漫画家もされている作品ですので、是非、手に取って見て下さい。
以上、小林多喜二の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした!