志賀直哉の性格と生い立ちは?経歴や作風は父親の影響?




「小説の神様」と評される志賀直哉。彼はどのような人生を歩み、どのような作品を世に残したのでしょうか。

  • 志賀直哉の生い立ちとは?
  • 志賀直哉の経歴と作風は?
  • 志賀直哉の人柄と性格は?

 

これらを中心に、志賀直哉について語っていくこととします。

 

志賀直哉の生い立ちとは?

1883年(明治16年)に宮城県石巻に生まれた志賀直哉。幼少期は祖父母に育てられました。

父母は健在だったのですが、志賀が生まれる前に兄が亡くなってしまい、その責任は母にあると祖父母が考えたためでした。

志賀家の家系を絶やさないよう、直哉は自分たちの手元に置いて育てたいだなんて、時代だな~と感じます。お母さんが可哀想でなりません。

 

そんな母親は志賀が12歳の時に亡くなってしまいます。

その数か月後に父親は再婚してしまうです。

12歳の少年にはかなりショックな出来事ですよね。

この時の様子は『母の死と新しい母』という作品として残されています。

書かずにはいられない出来事だったんでしょうね。

 

中等科に入学した志賀は、13歳の時、友人たちと会を発足し、会誌を発行しました。

志賀は和歌などを発表。これが志賀にとっての初めての文筆活動となりました。

いや、13歳で会の雑誌を発行するって!和歌を発表って!!

そういう時代だったのでしょうか?

13歳の時、私は何をしてたかな~・・・

 

しかし、この時、志賀は小説家になりたいとは思っていなかったようです。

海軍軍人や実業家を目指していたんですって。

ということは、和歌とかは趣味ってこと?高貴すぎる~

 

志賀が小説家になることを決意するのは高等科の頃。

その時、女義太夫に熱中していたことがきっかけとなりました。

女義太夫の公演を見て感動し、「自分も何かで人を感動させたい!自分の場合には小説だ!」と考えました。

 

大学は現在の東京大学英文科に入学。

夏目漱石の講義を受けていました。

しかし、夏目漱石の講義に興味は持ったものの、授業にはほとんど出席せず・・・なんでよ~もったいない。

 

国文学科に転部するも、結局は中退してしまいました。

この頃の志賀が親しんでいた文学を簡単に紹介しますね!

 

【近代日本文学】

  • 尾崎紅葉
  • 幸田露伴
  • 泉鏡花
  • 夏目漱石(←親しんでたなら講義に出なさいよ~)
  • 国木田独歩
  • 二葉亭四迷
  • 高浜虚子
  • 永井荷風

 

【近代以前の文学】

  • 平安朝の文学
  • 近松門左衛門
  • 井原西鶴
  • 式亭三馬
  • 十返舎一九

 

【外国文学】

  • イプセン
  • トルストイ
  • ゴーリキー
  • チェーホフ

 

国内から海外の文学まで時代を問わず楽しんでいたことが分かりますよね。

これらが彼の小説家人生の基礎となっているんですね。

 

志賀直哉の経歴と作風は?父親についても

志賀直哉が初めて小説を書いたのはまだ東京帝国大学在学中のことでした。

処女作は『或る朝』。

これは祖父の三回忌の朝の祖母とのやり取りについて書かれた作品です。

 

大学を中退した年には、雑誌『白樺』を発表。

その創刊号に『網走まで』を発表しました。

この雑誌では他に、『茫の犯罪』、『城の崎にて』、『小僧の神様』などを発表しています。

 

現代文の授業で「白樺派」という単語を聞いた覚えはありませんか?

この白樺派は、志賀たちが作った同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸の考え方の流派なんですね。

志賀は文学界に一つの風潮を作った一人というわけです。なんだかかっこいいぜ!

 

少し話は変わるのですが、志賀を語る際に忘れてはいけないのが、父親の存在です。

志賀は長きに渡って、父親と不和な状態でした。

 

ことの始まりは、18歳の時。

志賀は、師事していた内村鑑三の足尾銅山鉱毒事件を批判する演説に衝撃を受けました。

現地を見に行きたいと現地視察まで計画したのです。

これに反対したのが志賀の父でした。

実は、志賀の祖父はかつて足尾銅山を経営していた立場にいたのです。

祖父が経営していたところで起きた事件を批判的な眼差しで視察しに行くなど、そりゃ~父親は許しませんよね。

このことで二人は激しく衝突し、どんどんと不和になっていくわけです。

 

両者の関係がより悪化したのは、志賀の結婚問題でした。

志賀は、志賀家の女中と深い仲になり、その女中と結婚することを希望しましたが、父は猛反対。

志賀は志賀家の跡取り息子ですから、結婚問題となると家を巻き込む一大事ですもんね。

 

5年後、志賀はこの女中との結婚問題を題材に『大津順吉』という作品を書き、初めての原稿料を手にしました。

とどめは、志賀が短編集を出版するにあたり、父に出版費用をお願いしに行った時のことでした。

父から「小説なんて書いて将来どうするんだ。小説家なんて、どんな者になるんだ。」と言われ、言い争いになってしまったのです。

このことで志賀は家出をしてしまいました。

家出と言ってしまうと、なんだか可愛い感じになってしまいますが、小説家としての将来を完全否定された志賀にしてみたら、かなり辛く厳しい言葉で我慢できなくなってしまったんでしょうね。

 

そんな志賀の初の短編集は『留女』でした。

これは祖母の名前にちなんだタイトルです。この短編集は後に夏目漱石に賞賛されたそうです。

 

『留女』を出版後、新聞に『清兵衛と瓢箪』を発表。

これは「志賀が小説を書くことに反対だった父への不服」が作品に込められているとか。

 

そして、自身初となる長編『時任謙作』の執筆を始めますが、なかなか筆は進まず、執筆を中断しました。

これもまた、父との不和を題材とした作品でした。

 

夏目漱石から新聞への連載を書いてくれないか?

と頼まれたのもこの頃でしたが、やはり小説の執筆がうまく進まず、連載の話を辞退。

夏目漱石に不義理を働いてしまったと自責の念にかられ、3年間休養をすることなりました。

 

さてさて、プライベートはというと、女中との結婚を反対された志賀は、結局は幼馴染である武者小路実篤の従妹と結婚。

しかし、この女性が女学校を中退し、再婚であるということで、父の望む結婚ではありませんでした。

これでまた不仲は深くなってしまいました。

どうしても反発せずにはいられないのだね・・・なんと、結婚の翌年には父の家から離籍してしまったのです。

 

結婚後、長女が誕生しますが、すぐに亡くなってしまいました。

この経験もまた、『和解』や『暗夜行路』に描かれています。

 

執筆活動を休んでいた志賀ですが、夏目漱石の死を境に執筆活動を再開しました。

その後、『城の崎にて』など多くの作品を精力的に発表していきました。

 

この年、長年にわたる父との不和にピリオドが打たれます。

この経験を描いた『和解』を志賀は1日に原稿用紙10枚ペースで書き、15日間で書き上げました。

もう感情が溢れてきて止まらなかったんでしょうね。

やはり父親というのは特別な存在で、和解できた喜びは格別だったに違いありません。

 

父との和解が実現してからの数年間は志賀直哉にとっての充実期でした。

多くの代表作を発表し、作品集も9冊も出版されました。

プライベートの充実が仕事にダイレクトに影響するタイプのようですね。

 

ずっと書けずにいた『時任謙作』も『暗夜行路』とタイトルを変えて連載を開始しました。

 

しかし、また志賀に暗黒時期がやってきます。

長編の執筆が行き詰まり、

  • 「自分は読む事も書く事も嫌いだ」
  • 「読みも書きもしたくない」

と日記につづるほどの精神状態になっていました。

 

仕事が行き詰まるとプライベートにも影響が出ます。

なんと、この時期、志賀は茶屋の仲居と浮気をしてしまうのです。

ただ、この体験ものちに志賀の作品として実を結ぶことになります。

「山科もの」と呼ばれる4部作です。女遊びも芸のこやしってやつですか?私は許しませんけどね!

 

読みも書きもしたくないとつづっていた志賀ですが、少し小説からは距離を置いて美術図鑑を刊行しました。

創作ではなく、写真集ちっくなものにいきましたか。

 

創作活動は手つかずで、『暗夜行路』の連載も中断。

この期間に国外旅行をし、心の充足を図ります。

そして、この国外旅行を小説『万暦赤絵』として発表。この作品で小説家志賀直哉は復活しました。

そこからは作品を立て続けに発表。

やはり書くことからは逃れられない性分なんでしょうね。

着想から25年、連載開始から16年の時を経て『暗夜行路』も完結させました。

 

『暗夜行路』を完結させ、『志賀直哉全集』を9巻発行すると、ひとまず物書きからの廃業を宣言。

油絵に熱中する日々を送ります。

 

が、廃業宣言から4年後、わが子との旅行の経験を綴った『早春の旅』を発表。

そうよね、廃業は「ひとまず」だったもんね。はいはい。

 

太平洋戦争中はまた執筆はほとんど行わず、戦争後に執筆活動を再開しました。

小説だけでなく時事エッセイなども書くようになっていました。

 

1949年には、谷崎潤一郎とともに文化勲章を受章しています。

 

文化勲章受章後は、それほど精力的に執筆活動を行わず、1969年の随筆『ナイルの水の一滴』が最後の作家活動となりました。

そしてそれから2年後、肺炎と老衰により、88年の生涯に幕を閉じたのです。

 

志賀直哉は「写実の名手」であると定評がありました。

無駄を省いた文章は、文体の理想の一つと言われ、文章の書き方を学ぶための模写の題材に作品が使われるほどでした。

 

「小説の神様」という異名が付けられていますが、これは代表作『小僧の神様』をもじったものなんですよ。

洒落が効いてますよね!

 

志賀直哉の人柄と性格は?

さて、経歴が長くなってしまったので、ここはサクッと書いておきましょう。

志賀直哉は自他ともに認める引越し魔です。

なんと、23回も引越しをしています。

宮城、東京、広島、島根、京都、神奈川、群馬、千葉、奈良、静岡・・・都府県だけでも10か所も!!

引越しって結構ハードですよね。これに付き合わされる家族も大変だ~

 

しかし、この引越しがあったからこそ『城の崎にて』などの作品が生まれたんですよね。

 

そして、家族への思いが強かった人でもありました。

  1. 実母の死と父親の再婚を題材にしたり、
  2. 初の記念すべき短編集のタイトルが祖母の名前にちなんでいたり、
  3. 自分の父との不和から和解までを書いたり

 

志賀直哉の経歴を書いていて、これほどまでに家族とのエピソードを小説にした作家がいただろうかと疑問に思うほどでした。

本来は隠しておきたいようなことも書いてしまうのは、志賀の家族愛が強いからではないでしょうか。

自身の浮気の件は隠しておきなさいよと思いますがね・・・

 

プライベートと執筆活動が本当に直結した人だったんだなとしみじみ感じました。

 

まとめ 志賀直哉の性格と生い立ちは?経歴や作風は父親の影響?

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では、志賀直哉の性格と生い立ち・経歴や作風・父親の影響についてまとめておきましょう。

 

  1. 志賀直哉は若くして同人誌を発行していた。
  2. 志賀直哉は「白樺派」という文学界の派閥を作った一人である。
  3. 志賀直哉は長い間父と不仲であったが、無事に和解することができた。
  4. 志賀直哉は多くの作品を残しているが、自分の体験を書いたものが多い。
  5. 志賀直哉は引越し魔であった。

 

ここまで家族のエピソードを書かれるとやはり読まなくてはいけない気がしてきますよね。

  • 母の死と父の再婚を書いた『母の死と新しい母』
  • 父とのことを書いた『和解』

は読まなければ!と思いました。

 

浮気について書かれた「山科もの」もどんなことを書いてあるのか気になるのでチェックしてみようかな~(本当にどんな顔して書いたんだろうかね。)

ではでは、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

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