柳田国男の性格と経歴は?生い立ちとエピソードが面白い!




子どもの頃、「昔々ある所に…」で始まる昔話を聞いたことはありませんか?

「桃太郎」や「浦島太郎」、「かちかち山」くらいは聞いたことがある人は多いかもしれません。

実はこれらの昔話を研究する学問があるんです。

  • 「えっ!昔話を研究するの!?」と思うかもしれませんが、研究する学問がちゃんとあるんです。その名も『民俗学』と言います。
  • 「何、それ?聞いたことない…」という人は、今回の「日本民俗学の父」と呼ばれた柳田国男についての記事をぜひ読んでみて下さい。
  • 「民俗学って学問なんでしょ?何か取っ付きにくそう…」と今思ったそこのあなた!

 

民俗学って実は私たちの身近にある物を研究する学問なんです。

例えば、2016年に公開されて大ヒットした映画「君の名は。」をご存じですか?

「知ってる」という方に質問です。映画の中でキーワードの一つになった『かたわれ時』という言葉を覚えていますか?

  • 「あったあった。」という人もいれば、「何かあったけど忘れちゃった…」って人もいると思います。
  • 実はこの「かたわれ時」という言葉、民俗学で使用される言葉なんですよ。
  • つまり、学問用語なのに映画の中にさらっと入ってしまって全く違和感がないというすばらしい学問が「民俗学」なんです!

 

しかも、この「かたわれ時」を含めた言葉をちゃんと学問としてまとめた人物こそが柳田国男なんです!

こういうことを聞くと、民俗学の内容や柳田国男について興味が湧いてきませんか?

今回は、柳田国男について

  • 柳田国男の生い立ちは?
  • 柳田国男の経歴と作品
  • エピソードで読む柳田国男の性格は?

 

を紹介します。

こちらを読めば、柳田国男の経歴や作品、性格がよく分かります。

柳田国男の作品だけではなく、映画や他の人の小説などにさりげなく紛れ込んでいる民俗学の用語が分かるようになりさらに楽しめるようになります。

ぜひご覧ください。

 

柳田国男の生い立ちは?

柳田国男こと本名・松岡国男は

  • 1875(明治8)年7月31日に兵庫県神東郡田原村辻川で誕生
  • 1962(昭和37)年8月8日に亡くなる

 

という88年の人生を生きました。

「ちょっと待って!本名と名字が違うの?」と疑問に思った方、鋭いですね。

でも『柳田国男』の方も本名と言えば本名で間違いないんですよ。どういうことでしょう?

  • 実は、国男は八人兄弟の六男として生まれました。しかも兄弟全員男の子でした。
  • また、この時代に家と名字を継がなければいけないのは基本的に長男でした。
  • つまり、他の兄弟はお嫁さんの家に婿養子に入ったり、他の家の養子になったりして、その家と名字を継いでも何も問題がない訳です。

 

国男は生まれた時には「松岡国男」だったんですが、1901(明治34)年、

26歳の時に柳田家の養子となってからは「柳田国男」になった訳です。

  • 男性の方が名字が変わるというのは今でも時々ありますよね。
  • ペンネームではないということだけ注意してください。
  • ただ、この記事ではややこしいのでどちらも「柳田国男」の方で書いていきます。

 

さて、柳田国男は八人兄弟と両親と父方の祖母という、現代人の感覚から言うと大家族の松岡家で育ちます。

実はこの松岡家の家族の皆さん、プロフィールがすごいんですよ!

例えば柳田国男のお父さんである松岡操は、

  • 松岡家は代々医者の家系で、操自身も医師を職業としていた
  • 医者でありながら儒教や国文学にも詳しい人だった
  • そのため町塾熊川舎の師範になった教育者でもあった

 

という、今で言ったら「医師と教師を職業にしている人」なんです。

  • 基本的に一人の人間が掛け持ちできる職業とは思えません。
  • そんなことが出来る天才って中々いないんじゃないでしょうか?
  • 東京大学あたりに行けばいるかもしれませんが…。

 

そんな頭がいい柳田国男の父・操を育てた国男の祖母・小鶴も賢い女性でした。

  • 小鶴自身も女性でありながら医術の知識があった
  • 儒学だけでなく、詩歌や文章、書、算術にも優れた教育者だった

 

という親子二代で「すごい!」としか思えない経歴を持っています

また、柳田国男の母・たけはどうかと言いますと

  • 旧家の出身だが、専門的な学問の教育は受けていなかった
  • それにも関わらず、夫である操が子どもたちに教えている漢文の内容を覚え、
  • 子どもたちが再度間違えたら正すほど記憶力が良かった

 

というこれまた頭がいい女性でした。

  • 耳で聞くだけで漢文の読み方や内容を覚えてしまうなんて…。
  • 高校の国語の試験で苦労した身としては分けてほしい才能です!
  • そんな祖母と両親の血を引く松岡家の子どもたちが賢くない訳がありません!

 

柳田国男の八人兄弟のうち三人は大人になる前に亡くなってしまいますが、残り五人の子どもたちは当時としては輝かしい経歴をたどります。

柳田国男については後で詳しく説明するため、まずは他の兄弟について簡単に経歴を見ていきましょう。

 

長男・松岡鼎

  • 19歳で菖文小学校校長となる
  • その後、東京帝国大学医科大学別科に入学し、医師になる
  • 医師になってから移り住んだ千葉県で東葛城郡会議員や布佐町長、県医師会長などを務める

 

三男・井上通泰

  • 東京帝国医科大学に入学し、眼科医になる
  • 歴史家や歌人としても有名で、「万葉集新考」「播磨国風土記」「南天荘歌集」などの著作を発表する
  • 宮中顧問官や貴族院議員、帝国芸術院会員、御歌所寄人などに任命される

 

七男・松岡静雄

  • 海軍兵学校を首席で卒業
  • 海軍軍令部参謀や戦史編纂委員長などを歴任した
  • 海軍でも目立つほどの言語学者だった
  • 退官後は言語学と民族学の研究者となり、「日本古語大辞典」「ミクロネシア民族誌」「太平洋民族誌」などの著作を発表する

 

八男・松岡輝夫

  • 幼い時から絵が得意で、東京美術学校を首席で卒業し、画家としての名前である雅号・映丘を名乗る
  • 卒業後、東京美術学校の教授となった
  • 大和絵を専門としながらも、画家による自由な創作活動を目的とした「国画院」と創設する
  • 門下生からは有名な画家が多く出た
  • 帝国美術会員に任命される

 

もう一人一人のレベルが凄すぎますね…兄弟それぞれ方向性は違いますが、専門の職業だけではなくて議員や研究者やら兼任してますもん。

「本職は一体どれ!?」って突っ込みたくなります。それくらい器用に複数の仕事をこなしてる時点で天才ばかりの兄弟です。

一方、柳田国男自身はどういう経歴の持ち主なのか、今から見ていきましょう!

 

柳田国男の経歴~前半

柳田国男は優秀な祖母や父、母を持ち、代々医師の家系という松岡家で育ちます。

これだけ聞くと「裕福な家のお坊ちゃんだったんだろうなぁ」と思いますよね。

しかし、松岡家は決して裕福な暮らしをしていた訳ではありませんでした。

  • というのも、柳田国男が生まれた松岡家は分家(主な家の財産を受け継ぐ本家とは別の家)だったためです。
  • 松岡家の本家も代々医師の家系でしたが、こちらは財産も同時に受け継ぐことができたため、大きな屋敷を持っていました。
  • しかし、松岡家の本家と柳田国男の分家は江戸時代の初め頃に分かれていました。

 

本家と分家の間の財産の違いを現代人の感覚で分かりやすく例えるなら、

  • 兄弟間で病院の院長を継ぐことができた医師と他の大勢の医師と同じ給料で病院勤めをする医師との財産の違いを想像してみて下さい。
  • 職業は一緒でもまず給料と持っている財産が違いますし、加えて男ばかり八人兄弟を抱える大家族だったため、
  • あまり贅沢はできない家庭環境だったとすぐに想像できます。

 

実際、柳田国男が生まれ育った松岡家は四畳半二間と三畳二間の部屋が田の字型にあるという間取りでした。

後に柳田国男自身が「日本一小さな家」と表現したように、当時の一般的な農家と同じ造りをしていました。

その代わりと言ってはなんですが、両親と祖母は教育者として子どもたちへの教育には力を注いでいました。

 

しかし、小さな家だと何かと不自由があり、トラブルも当然起こります。

  • 国男の15歳上の兄である長男・鼎は20歳の時に結婚
  • しかし、小さな家で嫁姑問題が勃発したため一人目の妻とは離婚し、二人目の妻は自殺
  • 傷心の鼎は23歳で東京に出て医師を目指す

 

という、松岡家にとっては大きな事件・出来事が起こります。

当時の国男は計算するとわずか5歳から8歳の間で経験した出来事ということになります。

事情が分からなくても、狭い家だと大人の様子からただならない事態だと感じたことでしょう。

そしてその経験が、後に柳田国男が民俗学を志す大きなきっかけにもなります。というのも、

  • 当時の家の狭さは、周りの農家と同じ大きさであった
  • そのため子どもの時の柳田国男は、「自分の家でこういう出来事が起こっているのなら、他の家でも同じようなことが起きているのだろうか?
  • もし起きていないのなら、そのことを知らないと兄のような人がまた出るかもしれない。」と疑問と危機感を感じた

 

経緯があったからです。子どもらしい好奇心と家族想いな心が後の人生に影響を与えたのです。

 

さて、柳田国男は1879(明治12)年、4歳の時に、兄・鼎が校長を務める菖文小学校に入学します。

  • 「小学生になるの早くない!?」と驚きますが、実は義務教育という制度がきちんと整備されたのは1890(明治23)年のことです。
  • つまりそれまで、授業料さえ払えれば何歳からでも学校に入れたということですね。
  • ちなみに「義務教育は1890(明治23)年に整備される」は覚えていて損はないです。

 

歴史の試験に出るので、この際覚えて下さい!

 

話は逸れましたが、柳田国男は4歳から小学生になれる程優秀で、一応授業料は払える家庭の出身でした。

  • しかし上に書いたように、決して裕福な家庭ではありませんでした。
  • そのため、両親と祖母は子どもたちを裕福な家庭の養子に出したり、経済的な援助を受けながら学問を続けられるようにしていきました
  • といっても、裕福なら誰でもいい訳ではありません。

大切な子どもとその未来を預けるのですから、自分たちの近くで信頼できる人を見つけいったのです。

例えば、

三男・井上通泰

  • 国男の9歳年上の兄
  • 12歳の時に、神東郡吉田村の裕福な医師の家である井上家の養子となる

 

六男・柳田国男

  • 10歳の時から一年間、裕福な庄屋であった三木家に預けられる
  • その家にあった大量の書物を乱読する

 

それぞれ井上家と松岡本家の援助を受けながら、

  • 長男・鼎→東京帝国大学医科大学別科
  • 三男・通泰→東京帝国大学医科大学
  • 六男・国男→東京帝国大学法科大学政治科
  • 八男・輝夫→東京美術学校

 

を卒業し、その後の人生を切り開いていきます。

また、年上の兄弟が先に支援を受けて道を切り開き、弟たちへの金銭的な援助を一部担うことができたことも大きな支援となりました。

  • 両親と祖母はここまで考えて行動していたのでしょうか?考えていたのなら恐ろしく頭がいいですよね…。
  • 実際、長男・鼎が最初に医師となって開業することが出来たことで、その後に続く弟たちの学費を支援しました。
  • 鼎は学費だけではなく、松岡家の生活自体の面倒も見ていました。

 

というのも、鼎は大学卒業に医師の跡取りが居なくなった茨城県の小川家に招かれて医院を開業します。

そして小川家の離れを借りて、狭い家に住んでいた家族を呼び寄せます。柳田国男が13歳の時でした。

親孝行ですよね~。

  • しかも小川家というのは代々学者の家系だったため、屋敷の倉にはたくさんの書物がありました。
  • 読書家だった柳田国男はこれらの本を乱読します。
  • また、井上家の養子となった三男・通泰に伴われて12歳の時から柳田国男は度々上京し、通泰が興味を抱いていた和歌に触れます。

 

この二人の兄の影響から、柳田国男は次第に文学を志すようになりました。

この頃、柳田国男に大きく影響を与えた出来事が起こります。

それは、小川家の屋敷の裏にある祠で起きた出来事です。

その祠は

  • 小川家当主の東作が祖母の屋敷の神様を祀っていた
  • 御神体として祖母が愛玩していた玉を納めていた

 

ものでした。

しかしまだ13歳の柳田国男は祠の由来など知りません。

  • またいたずら好きで好奇心旺盛な時期でもあったため、周りに人が居なくなるのを見計らってそっと祠の中を覗いてみます。
  • そこには、「単に中央を掘り窪めて、径五寸ばかりの石の玉が嵌め込んであった」そうです。
  • 柳田国男は不思議に思いましたが、まさか中を覗いたなんて言えないので、誰にもその玉が何なのか尋ねることが出来ませんでした。

 

その数週間後、柳田国男が暇つぶしに同じ祠の前の土を掘り返していたところ、昔の孔あき銭が何枚も出てきた。

その時、座ったまま青く晴れ渡っている空をふと見上げると、真昼にも関わらず「点々に数十の昼の星を見た」

という不思議な体験をします。

柳田国男自身が後に『幻覚』と表現した体験ですが、彼はその後「自分だけで心の中に、星は何かの機会さえあれば、白昼でも見えるものと考えていた」とも述べています。

 

つまりその時の不思議な体験を錯覚や夢として終わらせずに、

  • 不思議な出来事は確かにある
  • 特定の条件さえ満たせれば、その不思議な出来事は起こる

 

と考え始めるきっかけとしたのです。

 

また当時の小川家の屋敷の近くに、徳満寺というお寺がありました。

そこには、

  • 貧困のために生まれたばかりの赤ん坊を殺す「間引き」という風習を描いた絵馬があった
  • 柳田国男が育った兵庫県にはあまり間引きが行われていなかった
  • 何より、医師の家系である松岡家は間引きを否定していた
  • そのため、柳田国男は間引き絵馬を見るまで「間引き」という習慣を知らなかった
  • まだ幼かった彼は、絵馬を見て衝撃を受け、同時に自分が知らない習俗があることを知った

 

という経験もします。

柳田国男が小川家で過ごしたのは二年間ですが、この二つの体験が原点となり、後に民俗学の研究者として歩むきっかけとなります。

 

その後、柳田国男は1891(明治24)年に上京して、当時の有名な歌人である松浦辰男に弟子入りし、和歌を学びます。

あまり知られていませんが、柳田国男は和歌を詠む歌人でもあったんですよ。

意外ですね。

松浦辰男は柳田国男の歌人の師匠であると同時に、死後の世界に関する日本人独特の感性を教えた人でもあったんです。

いきなり難しい話が来たと感じてしまいますが、死後の世界に関する日本人独特の感性とは

  • 亡くなった人間の魂は、日本人なら日本に留まって遠くには行かない
  • そして自分が亡くなった後の日本を見守り続ける

 

という信仰を日本人は無意識に持っているということです。

いわゆる「ご先祖様が見守っている」という感覚ですね。

  • これは、外国から来た宗教にはない日本独特の物だと松浦辰男は考えていた訳です。
  • そして松浦辰男は、この考え方を柳田国男に初めて教えました。
  • 柳田国男は、外国にない日本独自の思想に初めて触れた訳です。

 

一方で1896(明治29)年、柳田国男が21歳の時に両親が立て続けに亡くなります。

その頃、柳田国男は

  • 自分の文学的な才能に限界を感じていた
  • 同時に、農民の暮らしとそこに根付く習俗や不思議な出来事、社会的な構造との関係性を明らかにしたいと考えていた

 

という状況でした。

そのため、柳田国男は文学で道を極めることを断ち、農政学を学ぼうと決意します

 

1897(明治30)年、彼は22歳の時に東京帝国大学法科大学政治科に入学しました。

そこでの柳田国男の主な研究の関心となったのは、農民の貧困・飢饉に対する対策などでした。

 

その研究を活かして、卒業後の1900(明治33)年に農商務省農務局に勤めます。

そして、勤務のかたわら各地の農民や平民に伝わる伝承・伝説などを集めて分析するという研究を手掛けていきます

 

柳田国男の経歴~後半

一方、プライベートな面では、

1901(明治34)年、26歳の時に柳田家の家督を継ぐため養子に入る

 

1904(明治37)年、29歳の時に結婚

などの出来事が起こり、ここで正式に「松岡国男」から「柳田国男」に名前が変わります

さて、25歳の時に農務省での仕事に就いた柳田国男は、ライフワークとして各地を旅し、地方の伝承や習俗を集めて研究しました。

 

この頃、

  • 現在の岩手県と宮崎県を中心とした伝承と習俗を調べた
  • 研究の結果を出版した作品「遠野物語」と「後狩詞記」を発表する

 

など、後の民俗学に繋がる研究を行っています。

 

この「遠野物語」と「後狩詞記」の内容には、

  • 「山人」(やまびと)や「またぎ」と呼ばれた猟師・山の民を研究対象にしている
  • その上で、日本人の祖先は「山人」であり、稲作を行う「平地民」は大陸からやって来た人々である
  • 山人はアイヌ民族に繋がる系統の人々である
  • 山人と平地民の同化が進み、山人は平地民の間に埋もれてしまったが、山人こそが日本人の古い祖先
  • つまり山人こそが本来の日本人なので、「平地民をやっつけてしまえ」(意訳してます)ということを主張している

 

という特徴があります。

明治時代にこういうことを主張するのって、実は結構危険なことなんですよ。

どうしてかと言いますと、

  • 天皇を「現人神」(神様が人間の姿で現れること)として神格化し、トップに置く神道の政策が採られていた
  • 天皇が行う行事では、米が重要な役割を果たすものが多かった

 

ためです。

天皇制を絶対的な物としていっていた時代に、国家公務員で「天皇を含めた稲作民は後から来た人たちで、本来の日本人ではないんだ!」と主張してしまったんですから。

  • しかも当時は遺伝子検査なんてありません。
  • 地方に伝わる伝承や習俗を元に主張したのですから、科学的な証拠もほとんどないしこじつけだと思われただろうなと想像してしまいます。
  • つまり、当時はそれだけ突飛な考え方だったということです。反逆罪とかで処刑されずに、よく命が保ちましたよね…。

 

しかし、現代人の感覚でこの「山人」と「平地民」はどういう人たちなのか考えると辻褄が合う人々がいます

  • 山人→縄文人
  • 平地民→弥生人

 

です。最近の研究で、アイヌの人々には本土の日本人より縄文人の遺伝子が多く残っていることが分かっています。

とは言っても、縄文人と弥生人との間で遺伝的に100%はっきりとした区別は未だにつけられないようです。

  • しかし、柳田国男が主張していたことで合っている部分もちゃんとあったのです。
  • 遺伝子検査がなくて天皇制が絶対だった時代にこのことを見抜くなんて、どれだけすごい人だったんでしょう…。
  • その後、柳田国男は何故か貴族院書記官長となる出世を遂げています。

 

同時に、同じく民俗学を成立させた人物の一人と言われている南方熊楠の神社合祠反対運動(それぞれの村落ごとにあった神社を一つの場所にまとめて神社の数を減らそうという政策に反対する運動)を官僚の立場から支援します

その理由は、柳田国男と南方熊楠の二人が「神社を中心にその地方ごとの文化・習俗が作られており、その神社を地方から失くすことは伝統文化の喪失につながる」という共通した考え方を持っていたからです。

柳田国男は44歳で貴族院書記官を辞任するまで南方熊楠を支援し、二人はお互いの考え方に影響を与え合いました。

 

また1920(大正9)年、柳田国男が45歳の時に、

  • 東北地方や中部・関西地方、沖縄などを旅行して現地の伝承・習俗を集めて研究する
  • 研究したことを作品として発表する

 

など、他の地方についても調べ始めます。

 

一方、仕事の方では1921(大正10)年、46歳の時に

  • 国際連盟委任統治委員に就任
  • スイスのジュネーブに移る
  • 農民の生活を豊かにするためにはどうしたらいいのかを考え、ヨーロッパの社会経済史を学ぶ
  • 「産業組合法を作るべき」と考えて、産業組合法についての本を出版する

 

などの活躍を見せます。

 

この頃にイギリスの社会人類学者フレーザーの影響を受けた柳田国男は、帰国後の1927(昭和2)年に

  • 北多摩郡砧村に書斎「喜談書屋」を作る
  • そこを民俗学研究所および教育の場とした
  • 方言研究会や木曜会(民間伝承論の講義)、民間伝承の会の設立などを行う

 

など、日本民俗学を研究し研究者を育てるための場を作りました

 

柳田国男はこの頃から本格的に日本民俗学の確立に取り掛かり、この喜談書屋は後に「民族学の土壌」と呼ばれる建物になります。

当時、南方熊楠を始めとした民俗学の研究者はたくさんいました。

ではどうして柳田国男が「日本民俗学の父」と言われるようになったのでしょう?

それは、柳田国男が行った民俗学研究の特徴にあります。簡単に言いますと、

  • 多くの民俗学者は、「日本の民俗学 対 世界の民俗学」の立場を取っていた。つまり、外国から入ってきた民俗学の学問をそのまま日本に当てはめて研究していた。
  • 柳田国男は、「日本の各地に残る民俗学を比較する」という立場を取っていた。つまり、民俗学に外国の学問の視点を入れずに日本独自の学問として成立させようとした

 

という違いがありました。

はっきりと「日本独自の民俗学」を作ったのは柳田国男だったということが理由なのです。

そのため、

  • 1949(昭和24)年、74歳の時に「民間伝承の会」が「日本民俗学会」となり、柳田国男が初代会長となる
  • 1951(昭和26)年、76歳の時に第10回文化勲章を受賞する

 

など、柳田国男の研究は徐々に世間に認められていきます。

 

そして晩年の1961(昭和36)年、柳田国男が86歳の時に今までの研究の集大成である『海上の道』を出版します。

この作品の内容は、

日本人はどこから来た人たちなのか

  • 「常民」(平地民のこと)が持つ稲作文化・信仰は、「山人」にどのような影響を与えたか
  • 常民に稲作文化・信仰を伝えたのは大陸からやって来た「海人」ではないか
  • 海人は大陸から沖縄を経由して日本に入ってきた人々ではないか
  • この「山人」と「常民」と「海人」が混ざり合って日本人と呼ばれる人々が生まれたのではないか

 

ということを主張しています。

「『山人』が元々の日本人である。平地民をやっつけろ!」と主張していた頃に比べたら、いくらかマイルドになりましたね~。

  • それだけ研究を重ねて、「日本人とは何か?」という思考に段々シフトしていったということでしょう。
  • すなわち、柳田国男が成立させた日本民俗学の最大の課題は、「日本人はどこから来て、どこに向かっている人々なのか」という物でした。
  • 何か壮大なロマンあふれる課題になりましたね!

 

そしてこの課題は「自分を知ること」に繋がるため、私たちも一緒に考える続けることができる物なんです

「そんなこと言っても難しすぎる」と感じますか?

でも民俗学って各地の伝承・習俗を研究する学問なんです。つまり現代になって変わった伝承・習俗も研究対象になるんです

例えば

  • スマホの登場でコミュニケーション手段が変わる→人々にどのような影響を与えるか?
  • 盆踊りの騒音に苦情が出たため、イヤホンで音を出して盆踊りを行った→伝統文化の喪失か?新しいお祭りの形か?

 

なども研究対象にしている民俗学者もいるんです!

こんな身近な物を考える学問なら別に特別な知識は要りませんし、気負わなくても好奇心さえあれば考え続けることができます!

日常のちょっとした変化や習慣に「どうしてだろう?」と疑問を持って、自分で調べたり考えたりするだけでもいいんです。

少しだけ、民俗学の世界に触れてみてはいかがでしょうか?

 

エピソードで読む柳田国男の性格は?

日本独自の民俗学を成立させた柳田国男ですが、経歴を見ると「頭が良かったんだなぁ」ということばかりに目が向いてしまいがちになります。

では柳田国男はどんな性格をしていたんでしょう?

一言で言えば、「『頑固』で『活動的』なのに『繊細』で『細かい作業が得意』で『ロマンチスト』な性格だった」と言えます。

どういうことかと言いますと、

  • 13歳の時に不思議な体験をして、「条件さえ整えば不思議な出来事は起こる」とずっと考えていた
  • 研究対象としたのは各地の伝承・習俗であり、一つ一つを自分で集めて検証した
  • 『後狩物語』と『遠野物語』を出版した1910年頃に、天皇制の批判と思われるような主張をしていた
  • 官僚時代に政策に反対する南方熊楠を支援し、退官後は「喜談書屋」を作って民俗学の研究と教育を行った

 

という出来事だけを見ても

  • 繊細でロマンチスト
  • 細かい作業が得意
  • 頑固
  • 活動的

 

という側面が見えてきます。

  • 確かに、繊細でロマンチストな人ほど何てない事に「どうして?」と疑問を持ちますよね。
  • そして好奇心が抑えられなくて、自分で色々と調べてみる人っていますよね。
  • 周りの人から見ると、「そんなことをどうして調べるの?」と思ってしまうようなことばかり調べてしまうんでしょうが…。

 

「その繊細さと好奇心と行動力がある人が後に天才とか呼ばれるんだろうな」と思ってしまう典型的な性格の持ち主が柳田国男だったのです。

つまり、あなたの周りに感受性が違って変なところに「どうして?」と感じてしまう人がいても決して馬鹿にしない方がいいということです。

もしかしたらその人は天才かもしれません。

理解できなくても、陰でそっと見守っておきましょう!

参考サイト

  1. 福崎町立柳田國男・松岡家記念館 http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/html/kinenkan/
  2. 飯田市美術博物館 柳田国男館 http://www.iida-museum.org/guidance/related-facility/yanagida/
  3. 福崎町観光協会 http://www.fukusaki-tabigaku.jp/kankou/syaji.html
  4. 福崎町公式ホームページ http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/0000000136.html
  5. 民話研究センター http://www.t-bunkyo.jp/library/minwa/minwa.htm
  6. 南方熊楠記念館 http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/exhibition-guide/corner4/corner4-1
  7. 柳田国男記念伊那民俗学研究所 https://inaminkenhome.blogspot.com/
  8. 朝日新聞 柳田国男に関するトピックス https://www.asahi.com/topics/word/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9B%BD%E7%94%B7.html
  9. 飯田市役所公式ホームページ http://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/20161129.html
  10. 文部科学省公式ホームページ http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317613.htm
  11. 霧立越シンポジウム『柳田国男100年の旅』 http://www.yamame.co.jp/sympo12-1.html

 

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まとめ: 柳田国男の分かりやすいおすすめ作品

柳田国男の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。

最後に柳田国男について簡単にまとめておきます。

  • 生まれた時の名前は「松岡国男」で、柳田家に養子に入って「柳田国男」になった
  • 祖母、両親、兄弟ともにすごく優秀。国男も例外ではなかった
  • 繊細でロマンチストな性格だったため、子どもの頃に不思議な体験をしている
  • 一時期、文学者を志していたことがあるが、限界を感じて止めた
  • 官僚として勤めている間に各地を巡りながら、各地の伝承・習俗を地道に集めた
  • 何も知らない人からは、天皇制の批判や政策に反対していると思われるような主張をしていた人なのに、なぜか出世している
  • 52歳の時に、民俗学の研究所・教育施設として「喜談書屋」を作り、日本の民俗学を確立させていった
  • 当時(というか今もそう考えている人が多いですが)主流だった「日本人単一民族」(日本人は一つの民族からできている)という考え方が間違っていると見抜いていた

 

柳田国男は、ライフワークとして始めた日本の民俗学を学問として確立させたパイオニアだったということです。

  • そんな柳田国男が研究成果として出した作品には、各地の昔話や伝承がたくさん書かれています。
  • 学問書として読まなくても、昔話の延長線として読めるものがたくさんあり、読んでいるうちに不思議な懐かしさを感じる物ばかりです。
  • なぜなら、子どもの頃に聞いた昔話にどことなく似ている話ばかりを集めているからです。

 

「そういう読み物なら読んでみたい!」と思いますよね。

とはいっても、「遠野物語」や「後狩詞記」は明治時代に書かれたもので現代人には難しく感じる言葉使いが多いです。

そこで、現代人が読みやすい文章で書かれた柳田国男作品と民俗学の入門書としておすすめの本を紹介します!

  • 『日本の伝説』柳田国男(新潮文庫)
  • 『日本の昔話と伝説:民間伝承の民俗学』柳田国男(河出書房新社)

 

『日本の昔話と伝説:民間伝承の民俗学』は民俗学の用語解説集のような物です。

そのため、気になる項目や興味が湧いた項目だけでも読むことができ、民俗学の世界にも触れることができます。

ぜひ、柳田国男を通して幼い時に感じていた懐かしい感覚を思い出し、民俗学の世界にも触れてみて下さい!

以上、「柳田国男の性格と経歴は?生い立ちとエピソードが面白い!」でした。

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noteにて、哲学の勉強法を公開しています。

 

現在は1つのノートと1つのマガジン。

 

1.【高等遊民の哲学入門】哲学初心者が挫折なしに大学2年分の知識を身につける5つの手順
 
2. 【マガジン】プラトン『国家』の要約(全10冊)

 

1は「哲学に興味があって勉強したい。でも、どこから手を付ければいいのかな……」という方のために書きました。
 
5つの手順は「絶対挫折しようがない入門書」から始めて、書かれている作業をこなしていくだけ。
 
3か月ほどで誰でも哲学科2年生レベル(ゼミの購読で困らないレベル)の知識が身につきます。
 
3か月というのは、非常に長く見積もった目安です。1日1時間ほど時間が取れれば、1ヶ月くらいで十分にすべてのステップを終えることができるでしょう。
 
ちなみに15000文字ほどですが、ほとんどスマホの音声入力で書きました。

かなり難しい哲学の内容でも、音声入力で話して書けます。

音声入力を使いこなしたい方の参考にもなると思います。

 

2はプラトンの主著『国家』の要約です。
原型は10年前に作成した私の個人的なノートですが、今読んでも十分に役に立ちます。
岩波文庫で900ページ近くの浩瀚な『国家』の議論を、10分の1の分量でしっかり追うことができます
 
 

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