「坪内逍遥」という名前を聞いたことはありますか?
日本史や文学に興味のある方はご存知だとは思いますが、「よく分からないなぁ」という方もいらっしゃると思います。
坪内逍遥。下のお名前は「しょうよう」と読みます。勿論ペンネームですね。
一体何をした方なのかというと、当時、まだ日本には存在していなかった「小説」という新たな「芸術」を生み出した方なのです!
今回は坪内逍遥の
- 坪内逍遥の生い立ちとは?
- 坪内逍遥の経歴は?
- エピソードから見る坪内逍遥の性格とは?
について書いて、小説の生みの親「坪内逍遥」について知ってもらおうと思います!
ポイントは以下の通りです
- 恵まれた環境で文学や音楽を学んで育った坪内逍遥はまさに根っからの「文学者」だった。
- 25歳にして有名人! 日本に「小説」という文化が誕生! 「シェークスピアの翻訳者」としても一躍有名に!
- 若くして名を馳せた逍遥。しかし決して驕らず、ユーモアある人格者であった。
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坪内逍遥の生い立ちとは?
坪内逍遥(本名:坪内雄蔵)は1859年(安政6年(つまり江戸時代です))に美濃国、現・岐阜県に生まれました。
父は今で言う地方役人のような身分で、逍遥はなかなか裕福な暮らしをしていました。
明治維新によって日本のあり方が変わり、父の役職も変わってしまったので坪内家は実家のある名古屋に移り住みます。
そこでは貧相な暮らしを……などということはなく、逍遥は漢字を学び、母の影響で歌舞伎を好み、11歳にして和歌や俳諧を楽しむという文学と芸術に特化したエリートに育っていきます。
文学に強い逍遥は1883年(明治16年)に東京大学文学部政治家を卒業し、文学士となります。
在学中に西洋文学を学び、西洋の詩や小説を読んだ彼は面白可笑しく日常を描いた戯作文学や西洋の思想や文化について記された政治小説ばかりが広まっていく日本の『文学』に違和感を覚えます。
これが、逍遥が後に手掛けた「小説で大切なことは人情であり、世の中の様子などはその次だ」と説いた評論『小説神髄』へと繋がります。
逍遥と西洋小説との出会いは、日本に「小説」という新たな芸術ジャンルを呼び起こしたきっかけでもありました。
大学卒業後は早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となります
- ウォルター・スコットの『湖上の美人』
- シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』
翻訳本を1884年(明治17年)に出版しています。
そして1885年(明治18年)、東京大学卒業から僅か2年。
逍遥は評論『小説神髄』および、小説神髄の理論を実践して書かれた小説『当世書生気質』で一躍有名人となります。
文学者は死後に評価されることも多いのですが、逍遥は当時なんと25歳。
家庭が裕福で環境に恵まれていたとはいえ、本当にすごいことですよね。
余談ですが、この『当世書生気質』が有名になりすぎた為に、作中に登場する放蕩者“野々口 精作”……と、非常に名前がよく似ている現1000円札のお医者さんこと野口英世は、清作という本名を英世に変えたそうです。
この改名、なんと「野々口精作のモデルだと誤解されるのが嫌だった」という理由だそうで、いかに当世書生気質が世に広まったか、人々に評価されていたかを感じさせられるエピソードです。(とはいえ野口英世本人も大概に“放蕩者”だったそうなのですが……)
坪内逍遥の経歴は?
坪内逍遥といえば「小説家」のイメージが強いのですが、翻訳者や劇作家としても有名です。
特に古稀(唐の詩人)とシェイクスピア全集の翻訳・改訂に取り組み、全作品を翻訳刊行した偉業は高く評価され、早稲田大学坪内逍遥博士記念演劇博物館の創設に繋がりました。
主な作品には、以下の物が挙げられます。
- 評論『小説神髄』(1885年 明治18年)
- 小説『一読三嘆 当世書生気質』(1885年 明治18年)
- 小説『妹と背鏡』(1989年 明治22年)
- 小説『細君』(1989年 明治22年)
- 戯曲『桐一葉』(1894年 明治27年)
- 戯曲『役の業者』(1916年 大正5年)
- 『シェークスピア研究栞(沙翁全集(40巻))』(1928年 昭和3年)
※こちらに関しては後に新たに翻訳本を出しています。
ここで紹介しているのはあくまでも一部分。
当時としてはかなり長生きだった坪内逍遥は多くの本を残し、後世に様々な影響を与えたと言えるでしょう。
エピソードから見る坪内逍遥の性格とは?
若くして名を馳せた坪内逍遥はどのような人柄・性格だったのでしょうか?
エピソードを交えながら紹介してみたいと思います。
面白い・独特なエピソードとしては、以下の物が挙げられます。
- 遊郭に通い、娼婦を嫁に迎えるというドラマのような純愛エピソード。
- 二葉亭四迷『浮雲』の発表時に名前を貸した後、四迷が真面目過ぎて逍遥的にはとても申し訳ないことに……。
- 逍遥=小羊? 坪内逍遥の羊愛がすごい!
上から順番に紹介していきましょう!
1.娼婦を嫁に迎えてしまった!
何となく想像出来るとは思いますが、娼婦を嫁に迎えるのは世間一般的にはあまり良いようには見られない行為です。
そもそも軍事が強化され、強い男が求められ、「文学」の地位がまだそれほど高くはなかった日本において、逍遥のことを白い目で見ている人も大勢いたはず。
ですが、逍遥は大学生の頃から遊郭に数年間通い続け、お気に入りの娼婦センを世間のことなど気にすることなく迎え入れたのです。
逍遥はセンが本当に好きだったのでしょうね。
このエピソードから逍遥は一途で、思い切りのいい性格なのではないかと伺えます。
現在でもセンの身分を気にせず、彼女を貶めることなく、学問も教え、愛し続けたという逍遥のこの話は美談として語り継がれています。
……が、実際のところはそんなに甘くはなかった、という事実をセンと逍遥の話を題材にいくつか本を残している松本清張が『行者神髄』の中で暴露しています。
やはり、逍遥ほどの人物であっても、結婚生活は生易しいものではなかったようですね。
2.二葉亭四迷=くたばってしまえ?
坪内逍遥の『小説神髄』の内容に納得できなかった二葉亭四迷が『当世書生気質』に対抗して書いたのが彼の代表作『浮雲』です。
しかし当初無名の存在で何の肩書きも無かった四迷の作品がいきなり発表されたところで、誰の手にも取ってもらえないことは明らかでした。
そこで四迷は大学中退後、お世話になっていた逍遥の本名『坪内雄蔵』の名義を借り、『浮雲』を発表します。
『浮雲』もその後の文学に大きな影響を与え、後出しで名乗ったことにより『二葉亭四迷』の名前も一躍有名になります……しかしその結果、逍遥と四迷の間で『浮雲』印税の押し付け合戦が始まってしまうのです!
「私はただ名前を貸しただけで、あとはあなたが書いたんだからお金なんていらないよ!!(意訳)」と主張する逍遥
「あなたの名前のお蔭で売れたんだ! 他人の褌で相撲する私なんて恥さらしだ、くたばってしまえ!(意訳)」と返す四迷。
両者の間で繰り広げられた印税押し付け合戦……ちなみに『二葉亭四迷』はこの時の彼の心情から付いたペンネームなんだとか……。
結局最後は両者ともに折れ、印税の半分は逍遥が受け取ることとなったそうです。
このエピソード。二葉亭四迷が非常にストイックなのも分かるのですが、坪内逍遥が自分の名の価値に溺れず、他者を想う心暖かい人物であったことも感じられますよね。
3.羊だらけの逍遥コレクション
坪内逍遥演劇博物館には「小羊のコレクション」の展示があります。
これは逍遥が生前集めていた羊グッズの数々を展示したもので、博物館内のみならず早稲田大学のキャンパス内にもチラホラと羊がいるんだとか……。
未年生まれ故か、羊を愛し、羊のグッズを集めるのが好きだったという逍遥。時には逍遥ではなく「小羊(しょうよう)」と名乗ることもあったそうです。
エリートコースを突き進んでいった逍遥ですが、ユーモア溢れる一面もあったようですね。
まとめ 坪内逍遥の性格や経歴は?生い立ちとエピソードがスゴすぎた!
坪内逍遥の性格や経歴は?生い立ちとエピソードをまとめました
ポイントは以下の通りです
- 恵まれた環境で文学や音楽を学んで育った坪内逍遥はまさに根っからの「文学者」だった。
- 25歳にして有名人! 日本に「小説」という文化が誕生! 「シェークスピアの翻訳者」としても一躍有名に!
- 若くして名を馳せた逍遥。しかし決して驕らず、ユーモアある人格者であった。
流れるように文学エリートの道を突き進んでいった坪内逍遥。
しかし彼は自らの才能に溺れることなく、一途で、思いやりがあって、ユーモア溢れる立派な人格者でもありました。
坪内逍遥について学び、私は彼が「小説で大切なのは人情だ」という彼の主張が体現されたかのような人物だと感じました。
どんなに有名になっても、彼は人として大切なことを忘れることは無かったのですね。
坪内逍遥は77年の人生のほとんどをシェークスピアの作品研究に費やしました。
シェークスピアの作品は今でも語り継がれる名作ばかりです。
妻を疑い殺してしまったオセロが真実を知り、自殺してしまうという悲劇『オセロー』は逍遥が晩年に改訂して翻訳を発表し直したものとしても有名です。
シェークスピアといえば『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』がよく知られていますが、たまには他の作品を手に取ってみることもオススメします。