『枕草子』の作者として知られている清少納言。
学生時代に国語の授業で出てきたよ!という人も多いでしょう。
今回は清少納言の
- 清少納言の生い立ちとは?
- 清少納言の経歴は?
- 清少納言は美人かブスか?
この3点について紹介しますね!
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清少納言の生い立ちとは?
清少納言は966年ごろ誕生し、1025年ごろまで生きました。
時代は平安中期、貴族文化が花開いていたころですね。
父は著名な歌人であった清原元輔、曾祖父は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父と、素晴らしい歌人の血筋家系に生を受けました。
清少納言は本名ではなく、通称名で、「清」=清原姓から、「少納言」=近い親族に少納言の位に就いていた人がいたことから、この呼び名になりました。
(少納言については、親族に少納言職に就いていた人はいないとされているので、くわしくはなぜ少納言と呼ばれていたのかは不明だそうです。)
15歳のとき、橘則光と結婚し、長男を出産。
しかし、性格の不一致で離婚してしまいました。
平安時代に性格の不一致で離婚することが可能だったことに驚きです。
元夫、則光とは離婚こそしたものの、縁がここで終わったわけではなく、その後も交流はあったそうです。
家族として一緒には居たくなかったということなんでしょうかね。
よく親族が許してくれたな~
そして、数年後には藤原棟世と再婚し、今度は女の子を出産しています。
清少納言の二人の子どもも後に歌人として活躍することになるので、やはり血筋って才能に関係あるんですね。
仕事面では、27歳ごろから一条天皇の中宮定子に側仕えをし始めました。
この経験が後に『枕草子』執筆へと繋がっていきます。
お仕えし始めて2年ほど経ったころ、定子の父が亡くなってしまいました。
定子にとってこれは大変。
天皇のお后とは言え、やはり父親の権力がものを言う時代です。
定子の父が亡くなってからは、定子の父の弟、藤原道長が権力を掌握します。
そう、あの道長です。
平安時代の最強貴族と言っても過言ではない、あの道長の登場ですよ。
道長は自分の娘を一条天皇に嫁がせ(中宮彰子)、あれよあれよと言う間に権力を高めていきます。
逆に、定子の一家は没落していくしかありませんでした。
そんな時、清少納言にも火の粉がふりかかります。
なんと、藤原道長と通じていると疑いを掛けられてしまうのです。
(真実はどうだったのか気になるところ・・・)
こんな疑いを掛けられては中宮定子のもとにいられない清少納言。
宮中を出てひっそりと暮らし始めました。
この時から『枕草子』を執筆し始めたのではないかと言われています。
楽しかった日々を振り返っては筆を進めていたのかな~
なんだか切ないよ。。。
しかし、清少納言をとても気に入って慕っていた中宮定子は、清少納言を呼び戻し、再び清少納言の宮中生活は始まりました。
良かったな~二人は固い絆で結ばれるほどの関係を築けていたんですね。
しかし別れは突然やってきました。
中宮定子が出産のときに亡くなってしまったのです。
当時、本当に出産は命がけだったんです。
天皇のお后様でも、出産で亡くなってしまうのですね。
これを機に、清少納言の宮仕え生活も本当に終わりを告げました。
清少納言、34歳ごろのことでした。
約7年間の宮仕え生活でしたが、主との別れはとても悲しかったでしょうね。
赤ちゃんを出産して、本来ならばとてもめでたく、喜ばしい場になるはずだったのに。
まさか、亡くなってしまうだなんて。
突然の別れを思うと、胸が締め付けられてしまいます。
宮仕えを終えた後の清少納言の人生はくわしく分かっていません。
断片的に残っている記録を読み合わせると、宮中時代の知り合いである和泉式部や赤染衛門ら(二人とも中宮彰子の女房)と手紙を交わしていたようです。
中宮定子が亡くなられてから約25年ほど生きたとされている清少納言。
宮中の女房たちと手紙を交わしていた記録があるということは、やはり宮中での生活を忘れられなかったのでしょう。
きっと、清少納言にとって、宮中での宮仕えは、やりがいのある、幸せな仕事であったに違いありません。
清少納言の経歴は?
では次は、清少納言の文人としての経歴に焦点を当てていきましょう。
清少納言は作家として知られていますが、歌人としても高く評価されていました。
- 作家としての清少納言
- 歌人としての清少納言
この2つに分けて彼女の文人生活を紹介していきます。
1.作家としての清少納言の経歴
みなさんもご存知の通り、清少納言は『枕草子』の作者ですよね。
『枕草子』は作り物語ではなく、日々の出来事や自分の思い、価値観などを綴った随筆集です。
そのため、清少納言は今で言うと、小説家ではなく、エッセイストになります。
『枕草子』は大きく分けて3つの章段で構成されています。
- 類聚的章段:「ものづくし」と言われている。「うつくしきもの」など
- 随想的章段:日常生活や四季の自然をありのままに表現している。
- 回想的章段:中宮定子への宮仕えなど、宮廷社会での生活を振り返っている。
一番有名なのは類聚的章段ですかね。
タイトルにあげた「もの」を並べて、それについて良いとか悪いとか自分のコメントを付けています。
ちなみに、教科書でよく目にするのは「春はあけぼの~」。
これは、一般的には随想的章段に分類されますが、異論もあるそうです。
こういう分類を決めたのは後の学者さんたちで、清少納言自身は分類など考えず、思ったことや実際にあった出来事をありのまま表現しているだけなんですよね。
だから、どこの章段に分類するかなどの言い合いは、とっても不毛だなと感じてしまいます。
平仮名を中心とした和文で書かれており、簡潔な文でまとめられているので、とても読みやすいのも特徴です。
中宮定子が亡くなった翌年には完成していたようなので、ほとんどは宮中生活の中で書き連ねていたんでしょうね。
没落していった一族、24歳の若さで死んでしまった中宮定子への慰めの気持ちから書かれたのかもしれません。
清少納言自身も、『枕草子』を何度も読み返しながら、華々しかった在りし日を懐かしんでいたことでしょうね。
2.歌人としての清少納言の経歴
先にも書いたように、清少納言は歌人の家系に生まれました。
清少納言も数多くの歌を詠んでおり、42首の歌を集めた家集『清少納言集』が残されています。
勅撰和歌集にも15首収められており、百人一首にも採用されています。
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
(まだ夜が明けないうちに、鶏の鳴きまねをして関守をだまして門を開けさせようとしても無駄ですよ。私とあなたの間にある逢坂の関は決して開きません。)
これは宮仕え中に、事務官僚であった藤原行成との間に交わされた和歌です。
即興で作ったと言われていますが、「鶏の鳴きまねをして関守をだます」というのは、『史記』の孟嘗君の逸話を踏まえています。
このように、歌人としても多くの歌が評価されている清少納言ですが、やはり、私たちからすると『枕草子』の存在が大きすぎて、そちらばかり注目してしまいがちです。
しかし、彼女が素晴らしい和歌をたくさん残していることも覚えてあげてくださいね!
【真実】清少納言は美人かブスか?
さあ、お待ちかね、清少納言は美人かブスかのコーナーです!(待ってないって!?)
もちろん、清少納言の写真や肖像画は残っておりません。
しかし、『枕草子』を読んでみると、少し清少納言の容姿が見えてきます。
まず確認しておきたいのは、平安時代の美人の条件には5つの要素があったこと。
- キメが細かくて色白の美肌
- 切れ長な目
- 下膨れの頬
- おしとやかな口
- 長く黒々とした艶やかな髪
これらが重要視されていました。
では、清少納言はどうだったかと言うと、「髪の毛」について言及している部分があるので、少し紹介します。
- 私の髪は人に見られると恥ずかしい髪である
- 髪がところどころ、縮れている
- 自分の髪の毛ではない
このように書かれています。
「見られると恥ずかしい髪」→自分の髪の毛に自信がないようですね。
「ところどころ、縮れている」→黒々とした艶やかな髪ではないので、美人の条件に当てはまらず。
「自分の髪の毛ではない」→何ですと!?自分の髪の毛ではない~???
清少納言は自分の髪の毛が美人の条件に当てはまっていないことを自覚していたんですね。
自分の髪の毛ではないということに関してですが、当時は「かもじ」という髪の毛の長さを補う付け毛がありました。
清少納言はそれを使っていたということですかね。
今でも、薄毛に対応したカツラなんかがありますよね。
当時は長さが重要だったので、かもじでごまかしていたんです。
さて、髪の毛のみしか検証はできませんでしたが、髪の毛のみでの判断で恐縮なのですが、清少納言は、当時の美人の基準に照らし合わせると、一応「ブス」と言えます。
(顔とかは超美人だったかもしれませんが、記述がないしさ~ごめんなさい。)
ちょーっと待ったー!!
見た目だけで「美人」か「ブス」かを決めるなんてナンセンス!
当時は貴族の女性の顔なんてめったに見られない時代です。
男性は、和歌や会話のやり取りから、嫁にしたいかどうかを決めていたんです。
たとえば高畑勲監督の、かぐや姫の物語でも、かぐや姫をどんなに美しいか、詩やたとえで表現してましたよね
なよ竹のかぐや姫の意味と由来はモデルがある?名づけたお爺さんは誰?
というわけで、清少納言の才能を見ていこうじゃありませんか!
清少納言は才女として有名で、公卿や殿上人とも臆することなく交流していました。
例えば、
- 藤原実方
- 藤原斉信
- 藤原行成
- 源宣方
- 源経房
これらの人との親交が資料として残されています。
特に、藤原実方との贈答歌が数多く残されており、恋愛関係だったのでは?と想定されています。
また、小倉百人一首に収められている和歌では、『史記』の逸話を踏まえていましたよね。
即興で詠んだ歌に、そのような内容を盛り込むことができるということは、漢文の知識も有していたことが分かります。
当時、漢文は男性貴族の教養の一つでしたが、女性には求められていませんでした。
しかし、清少納言はその知識も兼ね備えていたんですね!素晴らしい。
漢文の知識もあったり、これほど多くの人と歌を贈り合ったりしており、恋愛関係にまで発展していたのならば、清少納言は「いい女」として認定されていたんでしょうね。
結論!
清少納言は容姿は「ブス」であるが、才能に溢れたいい女であるので、「美人」に認定します☆
まとめ:清少納言の経歴と生い立ちは?美人かブスかも考察
清少納言についてサクッとまとめると・・・
- 清少納言は『枕草子』の作者で、歌人でもある
- 清少納言は中宮定子と固い絆で結ばれていた
- 清少納言は髪の毛にコンプレックスはあったが、才女であり「美人」
清少納言は頭の回転が速い人で、官職に就いていた人などにも負けない返答をしていました。
そんなやり取りも『枕草子』には書かれているので、ぜひ読んでみてください!
現代語訳で読みたい人にはこちらがおすすめ。
これ、一世を風靡しました。
「春はあけぼの」を「春ってあけぼのよ!」みたいな感じで、すごく親しみやすく訳してくれています。
世界観は少し変わっちゃってるかもだけど、内容はちゃんと分かるから、とーっても読みやすいのよ!←こんな感じで最初から最後までいきます(笑)
さて、『枕草子』は日本三大随筆の一つに挙げられています。
残りは『方丈記』と『徒然草』ですね。
これらは文学部などの大学入試で成立順を問われたりしますので、要注意!
作者名もしっかりと覚えておきましょうね!
鴨長明と吉田兼好(兼好法師)ですよ。
この二人についても書いているので、ぜひ読んでみてください☆
余談ですが、清少納言は同時期を生きた紫式部と比較されることも多いです。
知らない人はいないでしょうが、紫式部についても書いていますので、こちらも読んでいただけると嬉しいです♪
では、最後まで読んでくださりありがとうございました!