エコ活動のPRを見ていると、いつも思うことがあります。
こんなことしても何の意味もないということです。
- CO2の削減!
- 家庭内で無駄な電気は消しましょう
- リサイクルしましょう
- 節電・節水
- ビニール袋はもらわないでエコバッグ
- エアコンの室温は夏28度の冬20度
云々かんぬん。
エコ活動は個人レベルでやっても、あまりにも効果がありません。
この場合に関しては、塵は積もってもチリです。
なぜなら企業が営利のために、やりたい放題やっているからです。
それはたとえば、夏場のデパートに入ればすぐわかります。
これでは家庭が冷房我慢しても何にもなりません。
Co2の排出量も企業・工場がほとんど。
家庭の排出量は全体の5%、あるいは15%にすぎません。
かつてCO2の削減目標は「6%」と言われていました。
その中で「6%」削減しても、全体の中では何%でしょうか?
5%あるいは15%の100分の6。
微々たる量にすぎないでしょう。
そもそも家庭内での6%削減は、相当な負担を強いる。
生活水準が落ちるレベルです。
- 夏場・冬場で冷暖房の電化製品を使わずに暮らせるの?
- お風呂が3日に1回でいいの?
お金の節約ならともかく、エコ活動のために。できるでしょうか?
こういった削減努力を一生懸命おこなう人は、そう多くはないでしょう。
そして正直なところ、大多数の意見は、このようなものでしょう。
でも自分の生活の快適さや便利さを犠牲にはしたくない。
そこまでして、エコ活動をする気はない。
家庭内でのエコを本気ですすめるPRもあります。
正直言って気がしれません。
下記クリックで好きな項目に移動
エコ活動・Co2削減推進運動に対する3つの立場
ではどうするか。ここで意見が2つか3つに分かれます。
立場1 経済成長によってクリーンな社会を実現!
この立場は、「現状のエコ活動が気休めにすぎない」とすっぱり見切ります。
経済発展へと、しゃにむに驀進(ばくしん)する意見です。
これは要するに、
- 「工場もクリーン化されてきていて~~」
- 「自動車も今や電気自動車が~~」
などというように、
- 時代が下るにつれて技術も進歩する。
- そしてどんどんよいものができる
という進歩的思想を有する人びとの意見である。
言い換えれば企業家精神である。
彼らは、こういう主張をします。
そしたら、あなたがたがしたがっているエコ活動。
これも、本当にただの気休めで終わってしまいますよ?
これはなかなか優秀な思いつきであって、実際その通りである。
たとえば冷蔵庫。
これを15年以上前の古いモデルから、最新に買い替える。
これだけで相当なCO2削減になる。
国民経済にも、家計にも、地球にも優しい。
これは否定できない事実です。
この主張に従えば、我々は現状の便利さを手放す必要がありません。
しかもより便利で快適な生活を得られる期待もできます。
だから高等遊民のような意志の弱い人間は服従せざるを得ないほど、手ごわく魅力的な言説である。
ただし、この主張の徹底は、原発のような施設の徹底推進をも意味します。
立場2 徹底的なエコ活動家になる!
この立場は、徹底的にエコ活動をやること。
テレビで出てくる自給自足の人の生活のようなものですね。
アルピニストの野口健さんのような人もここに入ります。
野口さんは清掃登山という、私たちには理解し難い活動を続けています。
野口さんの活動は素晴らしく、立派です。
しかし、何が野口さんをそんな行動に駆り立てるのか?
これは、私たちにはなかなか理解できません。
なぜなら、私たちは自然に対して、「貧しい知性と感性」しか持っていないからです。
野口健さんのような人々は、日常生活から便利さを手放すことを受け入れた人です。
そして彼らにしかできない豊かな人生を作り上げています。
この豊かさは、経済発展に伴う豊かさとは全く別物です。
我々が彼らをうらやましいと思っても、彼らの真似を本気でする気は起きません。
我々ができない理由とは結局、現在の便利さを手放せないからなのです。
立場3 便利さを手放せない半端者(マジョリティ)
みっつめを挙げるとすれば、私たちのような人種です。
これまでにそこかしこに挙げたように、
- 知性・感性において貧しい
- 意志薄弱
- 快楽志向
- 惰弱
- 行き当たりばったり
- 目先の利得しか見えない考えられない
はっきり言えば、環境問題に特別何の意見も関心も持たぬ私たちです。
私たちのような人種は、魅力的な言説に惑わされるしか能がない。
かつて民主党政権時代、鳩山さんの25%CO2削減宣言がありました。
これに飛びついた人も多かったのです。
しかしこれは原発の徹底的推進を意味していたのです。(2011年より前のことです)
我々は知りませんでした。情弱なので。
そして2011年の福島原発事故。
私たちは、脱原発に飛びついたわけです。
しかしこれは、私たちの生活水準を低下させ、工場を倒産させることを意味しました。(電気代の値上がりとか)
経済発展を犠牲にし、わたしたち自身や家族の失業のリスクを背負うことを意味しました。
我々はこのことを知った上で脱原発を唱えられるのでしょうか?
……できないわけです。残念無念。
たかが便利さを捨てることが、我々にはどうしてもできない。
- 原発推進か?
- 脱原発か?
- あなたはどっち?
どうかそんな問いをつきつけないでください。
何も決めたくないのが、この立場の人間です。
まとめの未来予測 経済成長を目指す社会が目指されつつ、失敗する
個人レベルのエコ活動に意味はあるか?
というテーマで、エコに対する3つの立場をご紹介しました。
おそらく、経済発展に驀進する強き者の意見が、幅を利かせることでしょう。
我々はうしろめたく思いながらもそれを受け入れざるを得ません。
要するにほとんどの人は、環境より、未来の社会より、自分の懐のほうがはるかに大事なのである。
これは悪いことではありません。
だけど、そうでないフリをするのは、やめましょう。
しかしもし自分の胸に手を当てて否定できないのならば、せめてその通りだと甘んじて認めておかねばなりません。
人間何も取り柄がなくても、せめて自分に正直であること・誠実であることを失ってはいけません。
そして個人的なエコ活動こそ、こんな我々にできることであり、せめてもの罪滅ぼしなのです。
こんなことをしても何にもなりません。
我々はほかのところでいろんな無駄遣いの恩恵を受けています。
免罪符なんか買って罪が許されるとは誰も思いません(そう思っていた人は本当に憐れです)。
しかし裏を返せば、罪深さを自覚しているからこそ、買わずにはいられないのです。
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