不正を冒したいだけ冒す。
それが誰にもばれず、むしろ「清く正しい人」と、いたるところで評判を得る。
それでも「正義」なんていう下らない約束事を守る意味があるのか?
プラトン『国家』は、こういう話がテーマなのです。
プラトン『国家』のテーマは、正義論。
問題提起するのは、登場人物の
- グラウコン
- アデイマントス
この2人です。
グラウコンとは、アデイマントスとともにプラトンの実のお兄さんです。
- アデイマントスが長兄
- グラウコンが次兄です。
長兄・次兄などというと『北斗の拳』のようですが、ふたりともラオウやトキのような実力者です。
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正義は不正より損ではないか? 「グラウコンの挑戦」の問題意識
プラトン『国家』第2巻では、いわゆる「グラウコンの挑戦」と呼ばれる、問題提起があります。
その内容は、
「人間は正義をなし、不正をなすべきではない」
という一見当然のように思える主張を、ソクラテスに改めて証明してほしい
というものでした。
というのも、わたしたちは誰でも頭の中で
「不正は(発覚しない限り)正義よりも得である」
と思っているからです。
もし誰もそう思ってないなら、民法なんかいりませんよね。
グラウコンの主張は、
- 現代の正義論の次元を遥かに突き抜けた問題提起
- 正義に対する根本的な挑戦である
ということを確認しました。
詳しくは、こちらの記事で紹介しました。
アデイマントスの挑戦は、グラウコンの問題意識をさらに先鋭化
さて「グラウコンの挑戦」の直後。
お兄さんのアデイマントスが続けて話をはじめます。
「いやソクラテス、わたしも似たようなことを思っていたんですよ。」
直前で論じられたグラウコンの問題提起を補強する意味で
アデイマントスがさらに「正義と不正」についての話を展開します。
アデイマントスは
「不正を追求する生き方がいかに合理的ですばらしいか?」
を論じるという、これもまたとんでもない議論になっています!!
内容を要約的に見ていきましょう。
正義が善とされるのも、評判や結果のゆえに過ぎない。
そして、正義(を守る・行うこと)はそれ自体としては「苦痛を与えるもの」だ。
それではなぜ正義を讃える人々がいるのか?
それは彼らが正義の見返りとして、何か「苦痛の欠如や快楽を求めているから」だ。
そして正義を讃える人々にとって、正義がもたらしてくれる最大の報酬とは何か?
それは、わたしたちの言う「天国」「極楽浄土」への切符だ。
もしかしたら正義を実践しても、この世では報われないかもしれない。
しかし、正義が報われないなど、あってはならない。
だからあの世では報われるに違いない。
最悪、この世では苦労しても構わない。
その代わり、あの世で苦痛なく、安楽に過ごして「ああ、極楽極楽」と安らぐこと。
- 正義はいつか報われる。
- 正直者は報われる。
これこそが正義の価値だと、彼らは主張するのだ。
アデ「正義を守るのは、あの世で極楽になりたいからだろ?」 炎上必至の大挑発!
正義の価値として、一般民衆が思っていることを、平然と言ってのけるアデイマントス。
今現代の私たちでも正義を守る理由は
- 悪い事したら捕まるから
という感じですよね。
捕まらなかったら、不正します。
こういう考え方を、アデイマントスはとんでもない炎上ワードで片付けました。
彼らが正義を守る理由は「永遠の酩酊」への憧れだ。
要するに、あの世での極楽切符ですね。
これに対して不正・悪徳はどうでしょうか?
アデイマントスはこう語ります。
正義よりも圧倒的に得だ。
注意することと言えば、人々に気づかれないようすることだけだ。
確かに他の人々に気付かれずに、不正を押し通して生き切るのは容易ではない。
しかし、それは大きな仕事をするなら、どのような生き方であっても難しいものだ。
大事業を成し遂げようとするなら、困難な人生は避けられないだろう。難しさは同じ。
ならば、
– 正義よりも不正を追求する
– 徳よりも悪徳を追求する
その方が、現世ではより多くの幸福を手に入れられるだろう。
いやあ、本当にこの辺りは現代でもそのまま同じ論理が通用しますね。
成功者になりたければ、それなりに大きな仕事をしなければなりませんよね。
これはわたしの想像ですが、
この辺りは「プラトンが嬉々としてペンを走らせていた」のではないでしょうか?
こんなにスカッとする楽しいお話ってなかなかないです。
ここを楽しむだけでも哲学やプラトンを学ぶ価値ってあると思います(マジで)
不正をしたら神様にバレて地獄行き? いいえ、バレない方法教えます
さて、戻りましょう。アデイマントスは続けます。
不正を行うに際して、もう一つの危惧は「神々に気付かれること」です。
「そんな死後の裁判なんてないよ」
現代の私たちはそんな風に考えますよね。
でも未だに証明されていない問題ではあります。
つまり「もしかしたら天国地獄はある」という可能性は0と言えない。
それだけに、不正を追求する人生にとって、一番のネックです。
ところがこれも、大丈夫。
当時の古代ギリシアの
- 詩人
- 宗教家
- 様々な伝承
これらを調べる限りは、大丈夫。
そうアデイマントスは主張するのです。
というのも、古代ギリシアで誰もが知っていた話(日本むかし話のようなもの)を細かく調べてみると、
- 神々というのは優しい方々
- もし間違いを犯したとしてもそれが許されない、なんてことはない。
文献を調べる限りは、そう教えられている。
許してもらうためには、
- 「供物を捧げ、やさしく祈る(365e)」
- 「秘儀(365a)」
この2つを実践することで、許してもらえる。免罪されるという話なのです。
というわけで、不正の人も「祈りと秘儀」により、「永遠の酩酊」を手に入れられます。
おまけに不正の人は、「正直者は得られなかった現世における利益」も手に入ります。
いやくしもこの世でひとかどの人物たろうとする志ある若者であれば、
「不正の人・悪徳を行う者を目指す」
これこそ有為な若者の、進むべき道だ。
こんな不穏なことを若者が考えたとして、正義の人は、彼を止めるための説得ができない。
なぜなら、その人たちにとって正義を守るのはその見返り・報酬のために過ぎない。
正義それ自体で「善」であるとは、語れないからだ。
そのうえ、悪徳を非難する人々の言い分が、なに?
え? ハデス(冥界・地獄)での罰?
プププッww
そんなの、いよいよ「弱者の恨み」に過ぎない。
優秀な若者からすれば歯牙にもかけないだろう。
正義を守る人生で得られるものは、すべて不正な人生で得られる
ここまでで、アデイマントスは
「正義を守るメリットは、不正が成功すればすべて得られるメリットである」
と主張しています。
言い換えれば、
正義のメリットは、不正のメリットの「部分集合」なんですね。
アデイマントスは、更にたたみかけます。
仮に誰かこんな人がいたとしよう。
今まではなした私の議論が誤りであると証明できて、
正義こそ最善であることをわかっている人がいたとよう。
だとしても、彼はきわめて寛大な態度で、怒ることもないだろう。
なぜなら彼は、次のことを、わかっているからだ。
– 一般にはみずからすすんで正しい人であろうとする者など一人もいないこと
– 何らかの弱さ故に不正行為を非難するが、それは要するに自分が不正をはたらく力を持たないからだということ
– こんな連中もひとたび力を持てば不正を働く(ギュゲスの指環)のは明らかであること
これらの根本の原因は、
– 正義それ自体を讃える言説
– 正義それ自体の働きを説明する言説
これが皆無だからだ。
いかがでしょうか?
グラウコンの挑戦でも、
- 正義の人に最悪の人生を
- 不正の人に最高の人生を
与えました。
アデイマントスはそれに加えて、
「あの世であっても、不正の人が何か罰を受けたり不利益を被ることはない」
と主張しました。
正義の人による不正への反論として、普通考える最後の砦。
それが「あの世の存在」です。
その「あの世」が、伝承をきちんと調べる限り、不正者を助ける仕組みになってしまっている。
アテナイの文化・伝統が不正を擁護しているとも言えます。
要するに、神々が悪の原因であると解釈できる言説が、偉大な人々の遺した伝統として、国家全体でまかり通っている。
そうアデイマントスは主張したのです。
さらには、正義の賞賛が行き着くところも「永遠の酩酊=快楽」であると主張しました。
これが正義を貶めるのにたいへん効果的な言説なのです。
永遠の酩酊のために生きるならば、
あらゆる行為の基準は「快楽の損得計算」でしかありません。
(善とされる行為だろうが何だろうが)
それならば、この世での生活には何ら積極的意義は見出ない。
とすれば、この世でもあの世でも幸福な生き方としては、先の若者の選択が最も優れています。
これでは「正義を守るなどは偽善的で、愚かなやせ我慢」としか言いようがありません。
要するに、快楽が価値基準であるかぎりは、
二人の「挑戦」は真実をついており、決して打ち破れないのです。
まとめ
プラトン『国家』第2巻における正義論。
アデイマントスの挑戦についてご紹介しました。
わたしたちはふだん、正義や徳といった概念は
- それ自体として大きな価値を持つもの
- 無条件に善とされるもの
と考えています。
(現代の正義論もこれを前提にしています)
しかし、その実態をよくよく検討してみると、正義を行う根拠は弱弱しい。
「正義を守るが、不正をなすより得である」
という程度のもの。
決して「正義それ自体に価値を認めている」わけではありませんでした。
現代の正義論などは、それをもう認めてしまっています。正義それ自体に価値なんかないよと。みんなが不正を監視するために正義を作ろうよという話なのです。
それに対してプラトンは
「いやそんな正義はいらない。正義はそれ自体として価値があるのだ」
こう主張しようとして『国家』を書いたのです。
- マジでそんなこと、言えるの?
- プラトンさん、そんな大きいテーマ背負って大丈夫なの?
必読ですよね!
というわけで、続きはこちら。