ライプニッツの経歴と性格は?第二の万物の天才は意外と不遇だった!?
数学を開けば二進法と微分積分で出てきて、倫理を開けば近代ヨーロッパ思想で出てきて、世界史を開けば文化史で登場する多才な人物、ゴットフリート・ヴィルヘルム・フォン・ライプニッツ。
高校の教育を受けている方は一度は見たことがある名前。(その業績は覚えていないかもしれないでしょうけど)
今回は
- ライプニッツの生涯と思想
- ライプニッツの哲学以外の経歴(発明家であり外交官であり数学者であり中国研究家)
- 逸話、周りの反応から分かるライプニッツという人物
について、紹介します。
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ライプニッツの生涯と哲学・思想の解説。人生や性格が分かる面白いエピソード・逸話を紹介
Ⅰ ライプニッツの生涯と人生。
ライプニッツの生い立ち。出身地はライプツィヒ。
ライプニッツは1646年、ドイツのライプツィヒで生まれました。
- 父はライプツィヒ大学の哲学・倫理学教授
- 母はライプツィヒ大学法学教授の娘でした。
8歳でラテン語が読める
いわゆる学者家系に生まれた彼は8歳の時点でリウィウスのラテン文を読み、ギリシア人・ローマ人の著作、キリスト教の教父たちの著作に目を通していきます。
18歳で大学卒業する天才。
その後、15歳でライプツィヒ大学に入学し哲学と法学を学び、18歳で哲学の学位を取得しました。
【天才エピソード】年齢が若すぎて学位がもらえなかった
20歳の時に法学の論文を書いてドクトルの学位も取得しようと思いました
が、「もっと年長の人間に与えるべきものだ」と大学側が判断し、取得には至りませんでした。
【怪しい逸話】錬金術師の結社に入会する
21歳になってからニュルンベルクのアルトドルフ大学へ赴き、法学のドクトル学位を取得した彼は錬金術士の結社に入会します。
この結社でマインツの元宰相ヨハン・クリスティアン・ボイネブルグの知遇を得て、マインツ選帝侯ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルンに法学の論文を献上して仕えることになります。
貴族に仕える生涯。天才すぎて理解されない
しかし、天才には不遇がつきもの。ボイネブルグが亡くなった後、彼はいろんな貴族に仕えて様々な分野で活動します
が、優秀さを認めてくれる人間は宮廷の貴婦人たちしか居ませんでした。(彼の多才な活動はⅡで紹介します)
ライプニッツの哲学・思想を簡単にわかりやすく解説
ジョンロックが人間知性論を出版
60歳になった頃、ジョン・ロックが『人間知性論』を出版します。
倫理の教科書でも学んだ(であろう)「タブラ・ラサ」(白紙)という単語が有名なあの書物です。
(ロックの肖像)
一つ目はフランシス・ベーコンから始まるイギリス経験論。
(ベーコンの肖像)
もう一つは、デカルトから始まる大陸合理論です。
(デカルトの肖像)
【前置き】ジョンロックの思想・イギリス経験論を簡単に解説
何人いるか、調べにいきますよね。実際に行動してから、表やグラフにまとめて答えを出しますよね。
このように実践してデータを集めて、答えを出そうとする……それがイギリス経験論の考え方です。
しかし、全部が全部こういうやり方ではなくても答えが出せる場合もあります。
例えば「サイコロを振って1が出る確率は?」と聞かれて、実際に実践して答えを出す人は少ないでしょう。
ちょっと考えればもっと簡単に「6分の1でしょ?」と出てくるはずです。
と考える……それが大陸合理論の考え方です。
と言う合理論の祖デカルト
ロックは『人間知性論』でこう反駁しました。
ライプニッツの人間知性新論とはロックへの敬意と反論
それを読んだライプニッツは感嘆しつつも、反論を執筆します。それが『人間知性新論』です。
2人の人物が経験論と合理論で議論し合う対話形式になっているのですが、600ページぐらいありますので詳細までは書ききれません。
ライプニッツはこの中でロック思想に反論をぶつけて、合理論のポジションを取ったとだけ覚えてください。
【逸話】ロックが死んだので人間知性新論の出版を取りやめる
現在では死ぬほど分厚い書物となって出版されている『人間知性新論』。
しかし、ライプニッツは執筆直後この本の出版を取り止めました。
ロックが亡くなったというニュースを聞いたからです。敵ながら悼む気持ちがあったのでしょう。
代表作品モナドロジー(単子論)の出版
時勢に愛されなかった彼は晩年、有名な著作を書きます。『モナドロジー』です。
モナドロジー(単子論)とはどんな意味なのか
さて、『モナドロジー』にはモナドという物体についてメインで書かれています。
モナドとはギリシア語で「単一の」を表す”monos“という単語に由来する、ライプニッツの造語です。
モナドとは何か
さて、このモナドはライプニッツによれば全知全能の神の手から作られ、世界のありとあらゆる物質に宿っているらしいのです。
これが仕事してくれて、世界を最善のものにしている(予定調和)─そう彼は考えていました。
大正解です。それはカントという別の哲学者が反駁しています。
(カントの肖像)
モナドを考えるに至った経緯
しかし、何故彼は私達ですら矛盾がはっきりと分かるこんな思想を発表したのでしょうか。それには彼の生きていた時代のことを踏まえなければなりません。
世界史に詳しい人なら聞いたことがあるでしょうが、彼の生きていた17世紀は天才の世紀と呼ばれると同時に、17世紀の危機とも呼ばれる大変な時代でした。
ヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争の勃発、飢饉、相次ぐ魔女狩り─地獄と形容してもおかしくない時代でした。
(三十年戦争の惨禍)
今までこういう時、西洋は神様を信じてなんとかやってきました。
けれど、今回ばかりはそういった対処法に限界が来ました。
三十年戦争は宗教を信じすぎた故にカトリックとプロテスタントの二手に分かれ、お互いを憎しみあったせいで起こった戦争だからです。
宗派が違っても結局、信じるのは神です。全員の信仰を神の元に集合させ、悲劇を起こさせないようにした。
そのために作られたのがモナドという矛盾をはらむ怪しい物体なのです。全ては世界の平和のため……そう考えられています。
ライプニッツの最後は悲惨
ここまでの事をしたライプニッツですが、生前の人生は、特にラストは悲惨でした。
理解者もおらず、周りには嫌われ、生涯独身で、孤独な最期を迎えました。
葬式には友人が一人来ただけで、牧師さんも呼ばれないという状況だったと言われております。
次は、他の面からライプニッツを見てみましょう。
Ⅱ ライプニッツの哲学以外の経歴や業績
第二の万物の天才。ライプニッツはそう評価されるほど、多才で活動的な人間でした。
哲学者以外にも
- 法律学者
- 発明家、
- 外交官、
- 神学者、
- 詩人、
- 論理学者、
- 自然科学者、
- 歴史家、
- 普遍言語の理論家、
- 化学者(未熟だけど)、
- 数学者、
- 中国研究家、
- 図書館司書、
- 宮廷顧問官、
- プロイセン王妃のお友達、
- ベルリン科学アカデミーの創始者であり技師
をやっていました。(あぁ、書き出すの疲れた。二度とやりたくない)
ここで全ての業績を書き出すことは無理なので、
- 発明家
- 外交官
- 数学者
- 中国研究家
の4つの側面に注目します。
(1)「発明家」ライプニッツ。計算機の発明
ライプニッツの発明と言えば計算機です。
彼よりちょっと先輩の科学者パスカルも計算機を発明しましたが、足し算・引き算しか出来ませんでした。
しかも引き算に至っては作動せず、使った人がパスカルに使用法を尋ねると「複雑すぎて説明書が書けない」と返されたと言われています。
(ライプニッツの計算機)
ライプニッツの計算機はパスカルのものの改良版で、掛け算・割り算・開平(平方根を求める事)も出来たらしいです。
しかし、割り算は作動しなかったのではないかとも伝えられています。
何故未完成の状態で持って行ったのかは分かりません。
会長のロバート・フックに「完成させてから持って来いや」と言われ、完成させてから持っていきました。
しかし、あまりうまく作動せず、フックに「計算機なんて夢のまた夢じゃないか」(意訳)と嘲笑われたと言われています。
(2)「外交官」ライプニッツ
ライプニッツは外交官としても活動していました。
ライプニッツが生きていた頃のドイツは弱国でした。
いや、国としての形すら留めていませんでした。そんな危機的状況にルイ14世が王となったフランスは目をつけていました。
(ルイ14世)
「これは危険だ」とライプニッツは貴族のツテをたどって、ルイ14世に「エジプト(当時はオスマン帝国)に出征したらどうか」と手紙を送って、ドイツから目を逸らそうとしました。
しかし、ルイ14世は彼の言葉を聞き入れませんでした。一説によると、エジプトにまで興味が及んでいなかったからとされています。
(3)「数学者」ライプニッツ
ライプニッツが数学に目覚めたのは割りかし遅い方でした。
26歳ごろにパリに向かい、知識人の集まりや科学アカデミーに参加します
そこで数学が大事であることに気づき、クリスティアーン・ホイヘンスという有名な数学者・科学者の元へ教わりに行きます。
(ホイヘンスの肖像)
ホイヘンスは数学なぞほぼ知らないこの若者が驚くべき数学センスを持ち合わせているのを知って、「頭いいけどバカ」(意訳)と評しています。
そこから彼は二進法、微分・積分を編み出します。(二進法は(4)で説明)。
しかし、微分・積分は別の人間も同時期に編み出していました。
そう、ロックの記事でも紹介されたアイザック・ニュートン。林檎の逸話で有名な科学者です。
(ニュートンの肖像)
二人はどちらが先に発明したかで酷く長い争いを続けました。
しかし、ライプニッツの方が先に寿命が来てしまいました。
ニュートンは彼が亡くなったという知らせを聞いた時に「とうとうあいつの心臓が破れたか!」と大笑いしたそうです。
ニュートンはほぼ笑わなかったという伝説もあるので、それを考えると凄まじいですね。
尚、ニュートンの計算法はやりづらいため、ライプニッツの微分・積分の計算法が広く使用されているようです。そういう点ではライプニッツは勝ったと言えるでしょう。
(4)「中国研究家・易経研究者」ライプニッツ
アヘン戦争・アロー戦争後の世界を、すっかり西洋化されてしまった世界を生きている私達は信じられないでしょうが、近世ヨーロッパで中国は謎に満ち溢れた大国でした。
使節として向かったマカートニーというイギリス人も最初はこの国に敬意を払っていました。
ライプニッツもその例外ではありません。
ライプニッツは中国に行った宣教師のブーヴェから中国の情報を聞き出しました。その内、彼に酷く影響を与えたのが『易経』でした。
よく街中で長い竹串みたいのを手に挟んで占っている人を見るでしょう。
あれが最も身近な『易経』です。(厳密に言えば『易経』の中でも占いに特化したものですが)
文章で説明するとどうしても分かりづらくなるので、図を貼っておきます。
まず、太極というところが全ての大元です。
そこから、陽と陰に分かれます。
しかし、陽にも陽の陽である老陽と、半分陰が入っている小陽があります。陰も同じようになっています。この四通りは四象と呼ばれています。
よく哲学の書物を開くと、「ライプニッツは自分が発明する前に中国人が陽と陰の二元論を採用していたので驚いた」とあります。
しかし、易経の本を開くと「それは違う」と書かれています。
その答えを明かすためにも、易経の説明に戻ります。先ほど説明した四象の上にそれぞれ陰陽を加えるのです。
こうして出来た八通りを八卦と呼びます。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」ということわざもここから来てます。(この中での八卦は占いっていう意味になってますが)
これだけでは終わりません。この八卦を二つ組み合わせて、吉凶を占います。
つまり、六十四通りの組み合わせができるわけです。
その後、ライプニッツは易経の六十四の八卦の組み合わせを自分の発明した二進法で数を算出しています。
そして、ブーヴェからもらった易経の方位図に書き込んでいました。それがこちらです。
ライプニッツは中国について、こう評しています。
二進法が発明された当初、彼は何の役に立つか分からなかったそうです。
この二進法は彼の発明した計算機と合成し、後のコンピューターになります。まさに灯台下暗し。
Ⅲ 逸話・エピソード、ライプニッツの性格や人物像。周りの反応
ここではライプニッツの人物像を紹介していきます。
とりあえず、彼の肖像画を見てみましょう。
逸話1 カツラが大きい。髪型が異常
皆、こう思うはずです。
「カツラ、でかくね?」
そう、ライプニッツのカツラは大きいのです。
とても目立ちます。カツラだけではない。
ライプニッツは目立つ豪華な服を身につけていた。
彼を知っているある貴婦人は「学者なのに身なりはよい」と評しています。
逸話2 虚弱体質。猫背。
しかし、それに対して彼の体は貧弱でした。猫背で足も曲がっていて不格好だったと言われています。
ある貴族は前述の貴婦人と違って「見た目のつまらない男」と評しています。しかし、「約束したことは実行できる男」とも語っていました。
逸話3 論文を暗記? 天才すぎるエピソード。
確かにライプニッツは天才でした。こんな逸話があります。
21歳の彼はニュルンベルクのアルトドルフ大学で法学のドクトル位を取得するために、試験を受けることになりました。その試験は教授との面接で、論文と詩を読み上げるというものでした。
普通これは原稿を見ながら行うものですが、ライプニッツは論文を何も見ずに読み上げたのです。暗記してきたのだ、と教授はこれに感心します。
しかし、詩の方は原稿を見ながら行いました。
教授は皮肉っぽく疑問をぶつけました。
ライプニッツはこう返しました。
ライプニッツは能力に優れていただけではありません。人脈も広かったのです。
Ⅱでルイ14世やブーヴェとも繋がりがあったことを話しましたが、彼らだけではありません。
彼はその時代の著名人1000人と文通していたのです。その内容は哲学や科学など様々。驚くべきバイタリティと社交性ですね。
【結論】ライプニッツの生涯と思想、エピソードを紹介
さて、ここまでライプニッツについて紹介してきました。
最後にまとめを。
- 学者家系に生まれた
- 哲学者として『人間知性新論』『モナドロジー』を書いた
- 発明家として計算機を発明した
- 外交官としてルイ14世にエジプト遠征の提案をした
- 数学者として二進法と微分・積分を発見して、ニュートンと論争になった
- 中国研究家でもあった
- けれど不遇だった
- でかいカツラと豪華な格好をしていたが、貧弱な体だった
- 本当に天才だった
- 1000人と色んな分野で文通するほどバイタリティがあって社交的だった
もう二度と現れないレベルの天才。そう表現できる偉人でしょう。
参考文献・参照サイト・スペシャルサンクス
ここからはこの記事を書くために使用した書籍・サイトを紹介します。
ライプニッツに興味を持ってくれた方は是非触れてみてください。
きっとライプニッツも喜びます。
参考文献1 『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』
ライプニッツを知りたいならこれ!
多分日本で一番ライプニッツについて詳しく面白く書いてくれている本。
分厚いので、じっくり読むことをお勧めします。
参考文献2 『数学十大論争』
ライプニッツとニュートンの争いについて書いてくれている本。
他にもデカルトとフェルマーの争いとか書いてあるので人間同士のドロドロした展開が好きな人は読むと面白いかもしれません。
参考文献3・『哲学者190人の死に方』
哲学者190人がどうやって死んだかを著した史上初の本。
どうでもいい哲学者エピソードが好きな人はおススメ。
参考文献4・『アイザック・ニュートン』(ウェストホール著)
ニュートンについて解説している本だが、ライバルであるライプニッツとホイヘンスについても書いてくれている。
参考文献5・『易経読本』
易経について書いてある本です。
易経の歴史・実はやっていた偉人・占い方・その心得など詳しく書いてくれています。
それではあなたに一言教訓を。
「推しを追うならどこまでも」。
参考サイト
https://blogs.yahoo.co.jp/eigo_etymology/15088188.html
↑モノレールの由来を調べる時に使いました。
スペシャルサンクス ※〈〉の中はツイッターID
- この執筆依頼を持ちかけてくれたニートンさん〈@MNeeton〉
- ロバート・フックと科学史に詳しい歴史オタク・絵師で親友のみやぎんさん〈@miyagin0315〉
- ここまで読んでくれた貴方
以上、ライプニッツの生涯と哲学・思想の解説。人生や性格が分かる面白いエピソード・逸話を紹介でした
閲覧ありがとうございました!
(執筆・調査 白兎扇一〈@WhiteRabbit1900〉)
追記
ちょこっと宣伝
私、白兎扇一は、今日は何の日か調べて短編小説を書く、今日は何の日短編集という企画をやっています。
詳しくはツイッターで#今日は何の日短編集で検索してくださいませ!毎日更新してます!
哲学にまつわる小説を書いてらっしゃる白兎扇一〈@WhiteRabbit1900〉さんに書いて頂きました