社会契約説の提唱者として名を連ねる人物、「ジョン・ロック」。
公民科の授業でホッブズ、ロック、ルソーの三名をセットで教わったのではないかと思います。ですが、ロックは真ん中に位置する人物ということで、あまりピンと来なかった方も多いのではないでしょうか?
今回はジョン・ロックの
- ジョン・ロックの生い立ち
- ジョン・ロックの経歴と代表作を分かりやすく
- ジョン・ロックの性格が分かる面白い逸話
をご紹介します!
ポイントは以下の通りです
- まさに「エリート」! 止まることなく名門に入学し、大学教授となるロック。
- 伯爵に思想を気に入られ、私設秘書官と主治医を兼任する秀才。
- 見た目は目立たない弱そうな男? それでも抱く思想は広大かつ影響力大!
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ジョン・ロックの生い立ち
ジョン・ロックは1632年、イギリス南部のサマセット州にある村、リントンに生まれました。この頃、イギリスは革命期(ピューリタン革命:1642~1649年)の動乱の最中で、ロックの父も革命の参加者でした。
そんな父の姿、そしてイギリス動乱の時代を見て育ったためか、後にロックは「政治の在り方」について考えるようになります。
ロックは1652年にオックスフォード大学のクライスト・チャーチ(聖堂でもある豪華な学び舎です)に入学し、哲学と医学を学びました。
ロックは哲学者として有名になりますが、医学の心得もあったのです。そのため、1667年にはイギリス貴族、シャフツベリ伯爵の私設秘書官と主治医を兼任します。
この大抜擢には、ロックの思想がシャフツベリ伯爵に気に入られたことにあります。ロックは大学教授の職に就いてはいましたが、まだ著書などは残していないため、たまたま手にとった著書が気に入ったから……などという理由ではないことが伺えます。
それにしても、『秘書』と『主治医』という異色としか言えない職の兼任経験があるのは、世界広しといえどもロックくらいではないでしょうか?
そんなロックの生活はシャフツベリが、当時の国王が行う独裁政治に反発したことによって終わりを迎えます。当時、『神によって権力を与えられた存在』だと考えられていた国王に異を唱えるということは神への冒涜に等しい行為であり、結果的に命の危険が伴うことでした。シャフツベリはオランダに亡命し、シャフツベリにとって身近な存在であったロックも身の危険を感じて亡命生活を強いられることとなります。
時は流れ、1689年。名誉革命によってオランダのメアリ、そしてその夫ウィレムが新たな国王としてイギリスに君臨することが決まりました。彼らに同船してイギリスに戻り、ロックは現王ウィレムの正当性と人民の権利を明確にすることを目標に、ある本を刊行しました。
それが、『統治二論(市民政府二論)』。ロックの代表作の誕生です。
ジョン・ロックの経歴と代表作を分かりやすく
オランダから招かれたウィレムは英語ではなくオランダ語を話す、まさに異質と言える王だったため、国内では名誉革命の是非が問われることとなりました。
そんな中で刊行されたロックの『統治二論』は、名誉革命の結果および、『革命』という行為そのものを肯定するものとなります。内容をざっくりとまとめると、以下のようなものになります。
- 国の権力を担うのは『人民』である。
- 人民のみで安全な政治を行うことは難しいため、王(権力者)が必要である。
- 人民は王に『抵抗権』・『革命権』を覗く権力を譲渡する。
- 王の権力は絶対ではなく、人民は場合によっては王を退けることも可能である。
ロックは『社会契約説』を提唱した哲学者の一人として名を残しています。彼のこの考え方はまさに、社会契約説そのものと言っても過言ではないでしょう。
彼の『国民が第一に存在する』という思想は、後のアメリカ独立宣言、フランス人権宣言の内容にも大きな影響を与えました。
また、ロックは権力分立の最初の提唱者であるとされています。
権力は国王のみが握るのではなく、主要な機関を作り出し分散させる必要がある――権力分立で有名となるのはモンテスキューですが、元となった考えを主張したのはロックです。
ロックは権力を立法権、執行(行政)権、外交権に分けて考え、立法権の他2つの権力より優位に立つものだと訴えました。法の重要性を理解しているからこその考え方ですね。
また、ロックは経験論においても有名な人物です。彼は「人間は生まれながらにして一定の知識(正しい事柄)を保有している」という生得説を批判し、「人間は経験することによって知識を得ていく」という説を主張しました。
ロックはこのことを『タブラ=ラサ』という言葉で表しました。タブラ=ラサは『白紙』という意味を持ちます。最初は白紙だった人々の脳内が、経験を得て知識が書き込まれていく
彼のこの考え方は、後の学者達、科学者や教育学者等に大きな影響を与えていきます。
ロックの思想は何かと後世に影響を与えていますね。
ジョン・ロックの性格が分かる面白い逸話
ジョン・ロックはどうやら比較的目立たない存在だったようなのですが、そんなギャップからかある日本人は自身の著書に残す程、ロックに強く感銘を受けていたようです。
その人物の名前は『内村鑑三』。日本の騎士道精神とキリスト教を結びつけ『二つのJ』を主張したことで知られている人物です。
彼は、ロックを「痩せていて小柄で、常に病気がちの目立たない人物」であると書籍に残しています。しかし、彼が持っていた思想は後に世界中を動かしたのだと高く評価しています。
内村とロックは全く異なる時代を生きた人物ですし、そもそも国が違います。それでも内村は今のようにインターネットが発達した世の中ではなかったにも関わらず異国人ロックの存在を知り、その功績を高く評価しました。
亡命生活を強いられた時期があったためか、ロックの逸話はあまり残っていないのですが、彼が先見の明を持つ素晴らしい人物であったということは紛れもない事実です。
ちなみにロックは医者という肩書きがあったためなのか、理系つながりであの有名な科学者とも交友関係を持っていました。
その化学者というのがニュートン。万有引力のあの人ですね。
一時は亡命生活を送っていたロックですが、晩年は読書を楽しむ余裕があった非常に穏やかなものだったようです。
残した主張は比較的目立つものだったのですが、敵らしい敵も存在せず、知る人ぞ知る有名人になったロック。思想家としては極めて理想的な生涯を送ることができたのではないでしょうか。
まとめ ジョンロックの性格と経歴はどんな人?生い立ちとエピソードが面白い
最後に、ジョン・ロックについてまとめておきます。
- ジョン・ロックはイギリスの哲学者である。
- ジョン・ロックはイギリスの革命期に生まれた人物だった。
- ジョン・ロックは秘書と主治医を兼任する万能な人物だった。
- ジョン・ロックは時と国を問わず、人々から評価される思想の持ち主だった。
ジョン・ロックと『権力』は切っても切り離せない存在です。
彼の代表作『統治二論』は国王の権力はどのようにして与えられるか、そもそも自然状態とは何か、父親の権力とは、国家とは……と様々な権力に関するロックの考えがまとめられた大作です。
ロックの思想は後世に影響を与えたものが多いため、何となくピンと来る内容も多いかと思います。
もし時間がありましたら、是非手に取ってみて下さい!
以上、ジョン・ロックの性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードでした!