エウテュプロンはアテナイの神官で、ソクラテスと「敬虔/不敬虔とは何か」というテーマで対話します。
エウテュプロンは若いですが、優れた神官です。彼の前口上を聞いておきましょう。
「ソクラテス、私が神々の法や、敬虔なこと・不敬虔なことについて、正確に知っているのでなければ、私はまったくの役立たずでしょうよ。
それらのことを知っているのでなければ、このエウテュプロンは、世の大衆に比べて、なんら優れたところがないことになりますからね。」
さすがに神官だけあって「敬虔さとは何か」に自信満々のエウテュプロン。
2017年8月に『エウテュプロン』新訳が出ました。
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敬虔とは何か~エウテュプロンの回答まで
ソクラテス「さあそれでは言ってくれたまえ。敬虔とは、また不敬虔とは何であると君は主張するのか」
エウテュプロン「敬虔とは、罪を犯し、不正を働くものを訴え出ることです。そしてそれを訴えないことが不敬虔です」
※注釈:エウテュプロンは、いままさに所有する奴隷を死に追いやった父親を訴えるべく役所に出向いたところです。そこでソクラテスと会って対話が始まりました。
ソクラテス「もっと明瞭に言ってくれないか? 私は敬虔とは何か、と尋ねた。なのにきみは、今まさにやっていること、つまりお父さんを訴え出ることが敬虔だと言っているのだけど」
エウテュプロン「いやそれが真実ですよ。」
ソクラテス「ぼくがきみに求めたのは、多くの敬虔なことのうちの、ひとつの事例じゃなくて、すべての敬虔なことが、それによって敬虔であるような、そういったものを知りたいのだ。」
エウテュプロン「おお、それが望みですか。ならそのように話しましょう。」
ソクラテス「そうともそうとも。それが望みだ。」
エウテュプロン「では。神々に愛でられるものが敬虔であり、愛でられないものが不敬虔です。」
ソクラテス「これはじつに見事に答えてくれた! まさにそうした仕方での答えを私は求めていたのだ。だけど、この答えが真実かどうかは、まだわからない。だから検討してみてもいいかい?」
エウテュプロン「ええ、もちろん」
※エウテュプロンの回答の仕方は、非常に優秀ですね。最初は「訴えること」と稚拙な答え方でしたが、次の答え方はソクラテスの要求をまさに満たしています。
「神々に愛でられるものが敬虔」という答えの吟味
ソクラテス「神々に愛でられるものが敬虔なのだね。ところでエウテュプロン、神々は互いに内輪争いをしたり、お互いに意見を異にしたり、敵意を持ち合ったりすることがあるよね。」
エウテュプロン「ええ」
ソクラテス「神々の間で意見が合わないとは、どんなことが原因なのだろうか。それは正義や善悪についてといった、一筋縄ではいかない話題が原因なのではないか?」
エウテュプロン「はい」
ソクラテス「つまり、同一のものごとを、ある神々は正しいと考え、他の神々は不正だと考える。ここから対立が生まれるのではないか?」
エウテュプロン「そうです。」
ソクラテス「してみると、同一のものごとが、一方では神々に愛でられ、他方では神々に憎まれるということになる。すなわち、同一のものが、敬虔でも不敬虔でもあることになる」
エウテュプロン「そのようですね。」
ソクラテス「じゃあきみの答えは違うじゃないか。あることがゼウスには愛でられるが、クロノスやウラノスには憎まれてしまうのであれば。」
最初の回答への修正=「すべての」を追記
ソクラテス「じゃあきみの回答を少し修正しよう。すべての神々が憎むものは不敬虔であり、愛するものは敬虔である、こう修正してはどうかね?」
エウテュプロン「ええ、そうしましょう。じつは私はそう主張したかったのでした。今度のこの定義は的確ですよ。」
ソクラテス「ところで、敬虔なものっていうのは、敬虔なものだから神々に愛されるのか。それとも神々に愛されるから敬虔なのか?」
エウテュプロン「おっしゃる意味がわかりませんが」
ソクラテス「では、たとえば、運ぶものと運ばれるものとは、互いに別のものではないかね。同じように、愛するものと愛されるものは互いに別のものではないかね」
エウテュプロン「もちろん」
ソクラテス「じゃあ運ばれるものは、運ばれるから運ばれるものなのか。」
エウテュプロン「もちろん」
ソクラテス「運ばれるものだから、運ばれるのではないよね。運ばれるから、運ばれるものなんだよね。」
エウテュプロン「そうです。」
ソクラテス「抽象的に言えば、作用を受けるものだから、作用を受けるのではない。作用を受けるから、作用を受けるものなのだ。」
エウテュプロン「同意します」
ソクラテス「じゃあ愛されるから、愛されるものになるわけだ。」
エウテュプロン「必然的にそうなります」
ソクラテス「では敬虔なものに戻ろう。敬虔なものは、敬虔なものであるから、神々に愛されるんだよね。違うかな。」
エウテュプロン「いや、まさにそれゆえにです。」
ソクラテス「敬虔なものだから、愛されるのである。愛されるから敬虔なもの、ではない。」
エウテュプロン「そのようです」
ソクラテス「敬虔なものは、神々に愛されるから、愛されるものなのだ。」
エウテュプロン「ちがいない。」
ソクラテス「してみると、きみの答えは少し違う。神々に愛でられるものが敬虔なものではない。また敬虔なものが神々に愛でられるのでもない。両者は互いに別のものだ」
エウテュプロン「いったい、どうしてですか」
ソクラテス「敬虔なものは敬虔なものゆえに神々に愛されるのであって、神々に愛されるから敬虔なものではない、わたしたちはこれに同意したはずだ。」
エウテュプロン「ええ」
ソクラテス「だから神々に愛でられるものは、神々に愛されるから愛される性質のものだ。他方、敬虔なものは、愛される性質であるから、それゆえに愛されるのだ。つまり、敬虔なものが愛されるとは、敬虔なものの一つの性質に過ぎない。」
エウテュプロン「なるほど」
ソクラテス「愛されるから敬虔なものなのではない以上、きみの回答「すべての神々に愛されるものが敬虔なもの」という回答は違うね。さあさあ、隠し立てをしないで言ってくれたまえ」
再定義:正しいことの一部分(神々の世話)=敬虔
エウテュプロン「なるほど。しかし、わたしは自分の考えを、あなたへどのように伝えたらいいかわからなくなりました。」
ソクラテス「じゃあちょっと私から聞いてみよう。敬虔なものは、正しいものでなければならないかね。」
エウテュプロン「たしかにそうです」
ソクラテス「では正しいものは、すべて敬虔なものだろうか。それとも、敬虔なものはすべて正しいものであるが、正しいものはそのすべてが敬虔なものであるのではなく、一部は敬虔なものだけれども、一部は別のものではないかね。」
エウテュプロン「ついてゆけません」
ソクラテス「難しいことは言っていない。敬虔なものは正しいものの一部分だと、そう思わないかね。」
エウテュプロン「そう思われます。」
ソクラテス「では敬虔とは、正しいものの、どのような部分なのだろうか。たとえば偶数は、数の一部で、等辺的な部分と答えられるが。」
エウテュプロン「それでは、正しいもののうち、神々の世話に関わる部分が、敬神や敬虔であると思われます。そして、人間の世話に関わる部分が、正しいものの残りの部分です」
ソクラテス「見事な答えだ、エウテュプロン。ただし、世話とはどんなことかがよく分からない。敬虔とは神々の世話なのだね。」
エウテュプロン「ええ。」
ソクラテス「世話というのは、世話されるものの善と利益を目指しているのではないか? 馬が馬術によって世話されると、より優れた馬になるようにね。」
エウテュプロン「そうですね」
ソクラテス「では敬虔も、神々の世話であるならば、神々の利益を目指し、神々をより優れた者にするのだろうか?」
エウテュプロン「それは違います」
ソクラテス「うん、私もそう思うよ。だからエウテュプロン、きみが神々の世話といってどんな意味なのか、よく分からないと言ったのだ」
エウテュプロン「神々の世話とは、奴隷が主人を世話する、ちょうどこの意味での世話です。」
ソクラテス「わかった。どうやらそれは、神々への一種の奉仕術だね。」
エウテュプロン「そのとおりです」
奉仕術としての敬虔
ソクラテス「たとえば医者の奉仕術の目的は、健康の達成だ。建築家への奉仕術の目的は、家の完成だ。」
エウテュプロン「はい」
ソクラテス「神々への奉仕術とは、どんな目的の達成なのかね? むろんきみは知っているはずだ。だってきみは、神々に関することなら誰よりも心得ていると言ってたからね。」
エウテュプロン「ええ、その言葉は真実ですよ、ソクラテス」
ソクラテス「では言ってくれたまえ。」
エウテュプロン「多くの美しい仕事の達成のためです。」
ソクラテス「神々が達成される多くの美しい仕事とは何だろうか。」
エウテュプロン「ソクラテス、それを正確に学び知るのは、それはもう大変なことなのです。簡潔に言うとすれば、もしひとが神々へ祈りや犠牲を捧げるに際して、神々に受け入れられる言葉や仕方をわきまえていれば、それらは敬虔なことです。反対に、わきまえていなければ、不敬虔なことです。」
ソクラテス「つまり敬虔とは、犠牲を捧げたり祈ったりする知識の一種ということかね?」
エウテュプロン「そうです」
ソクラテス「犠牲を捧げるのは、神々への贈り物であり、祈りを唱えることは、神々への請願だね。」
エウテュプロン「はい」
ソクラテス「してみると、神々への請願と贈り物の知識が敬虔であるということかね」
エウテュプロン「これは見事に、わたしの言ったことを理解してくださいました。」
ソクラテス「ということは、神々への奉仕とは、請願や贈り物をすることだね。」
エウテュプロン「はい」
敬虔=神々との交易術
ソクラテス「では正しい請願の仕方とは、私たちが神々から欲しいものを請願することだね。」
エウテュプロン「はい」
ソクラテス「他方、正しい贈り物の仕方とは、神々が私たちから欲しいものを、お返しすることだね」
エウテュプロン「そのとおりです」
ソクラテス「そうすると敬虔とは、神々と人間との間の、一種の交易術であると言えるね」
エウテュプロン「そう名付けて、あなたが気に入るなら、そうとも言えますね」
ソクラテス「いやちっとも気に入らないよ、それが真実じゃなければね。しかし気になるのは、神々に私たちからは何を贈るか、ということなのだが」
エウテュプロン「といいますと?」
ソクラテス「神々が私たちから何か利益や善を受け取るとは、考えられないのだが。だって私たちが所有する善や利益になるもので、神々が持たないものなど何ひとつないだろうからね」
エウテュプロン「たしかにそうです。」
ソクラテス「してみると、敬虔なものとは、神々に奉納されるものではあるけれども、神々にとって利益にもならないし、愛されるものでもないということだね」
エウテュプロン「いやいや、何にもまして神々に愛されるものであると思います」
ソクラテス「なるほど、それではまたしても、敬虔なものは神々に愛されるものになってしまうね。」
エウテュプロン「ええ」
以降は、またソクラテスが、エウテュプロンに再定義を求めますが、エウテュプロンは「もう行かなきゃ」と言って、対話が終わります。
まとめ エウテュプロンの人物設定のおもしろさ
エウテュプロンの性格設定に、プラトンのセンスが光ります。(ユーモアやギャグ)
エウテュプロンは、自分は敬虔については何でも知っている、という姿勢を最後まで崩しません。
いくらソクラテスに自分の考えをつぶされても、一向に自らの無知を認めない。
しかしエウテュプロンは神官だけあって、野卑なところや見苦しい言動を一切口にせず、あくまで上品な対応を貫く。
ソクラテスに教えてやろうという態度でいて、しかも強がりでも何でもなく、それがエウテュプロンの自然体のように描かれている。
対話の内容は、読んでいて少々不明瞭なところや、無理やり議論を終わらせたような箇所が見受けられますが、
エウテュプロンの人物像の描写としては、非常におもしろい対話編です。
日本語訳で現在入手可能な翻訳は『プラトン全集』のみ。ほかに勁草書房の『プラトン著作集』に所収。
2017年8月に『エウテュプロン』新訳が出ました。