ストア派の目指す理想の境地は「不動心(アパテイア)」です。読んで字のごとく、「何ものにも動じない心」を身につけるということです。まさに実践哲学。
この「不動心」は、ストア派の持つ「運命愛」の思想に基づいているように思われます。あるいは、「運命愛」という心的態度の帰結として「不動心」が練成されてくるもののように思えます。
運命愛というと、宿命論であったり、ニーチェ的な発想とも連なります。たぶん、プラトン・アリストテレスにはあまりない発想じゃないかと思います。
ということで、ストア派の運命愛について考えていきたいと思います。
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後期ストア派による運命愛への言及
運命愛の思想がはっきりと見てとれるテキストは主に後期ストア哲学者の著作のうちにあります。後期ストア哲学者とは、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスといった、ローマ時代のストア派を主に指します。キケロもストア派ではありませんが、ストア派の学説に関する言及およびキケロ自身が賛意を示している箇所が多くあります。
さて、運命愛とはどういう考え方か、実際のテキストをいくつか示してみましょう。
きみに生じることを愛さなければならない。それは諸原因を発端としてつむぎ合わされてきみに生じたのであり、きみに割り当てられたのであり、君に対して(親密な)関係をもったのだから。(マルクス・アウレリウス『自省録』5.8.12)
(足の悪い人に対して)きみはちっぽけな一本の足のために宇宙に対して不平を言うのか。それを全体のために捧げようとしないのか。きみはその授けてくれた者に喜んで従わないのだろうか。きみはゼウスによって配置されたもの、君の誕生をつむぎだした運命の女神と一緒に秩序付けられたものに不平を言うのか。(エピクテトス『語録』1.12.25)
出来事がきみの欲するように起こることを望まぬがいい。むしろ出来事が起こるとおりのことを欲したまえ。そうすればきみはうまくいくだろう。(エピクテトス『提要』8 )
いかがでしょうか。運命が起こるとおりのことを愛する思想がはっきり見てとれます。
ただし後期ストア派は倫理的側面に偏り、哲学的な論理的側面と自然学的側面を軽視すると一般的に批判されています。
この批判は要するに、学者の世界では、初期ストア派の研究に興味があって、人生訓に偏ったローマ時代のストア派にはあんまり興味がないんです。どう研究していいか、よく分からないというのが実状ではないかと思います。
ストア派の運命愛に関する研究状況
ちなみにボプツィーンという海外の学者が、ストア派の運命愛について結構研究しているようです。彼女によると、運命愛の思想とは後期ストア派のみに見られるもので、初期ストア哲学者(クリュシッポス。3代目学頭)の思想とはそぐわないと批判しているそうです。
これに対して、日本のストア派研究者である近藤智彦氏というヘレニズム哲学研究のエース的存在が、若干の反論を試みています。
近藤氏は上記のボプツィーンの解釈を検討し、運命愛の思想は、クリュシッポスの思想と齟齬しないと主張しました。さらにストア派にとって運命愛とは無力ゆえに避けられない「運命の甘受」(=やせ我慢)によって不動心・心の平静を得るのではなく、満足感も得られるものだと、大体このように結論しています。
近藤氏の主張は「運命愛はやせ我慢じゃなくて、満足感が得られるものだ」ということかと思います。わたしも、近藤氏のこのご意見に賛同です。
しかし、さらに一歩踏み込む形で「安心・満足こそが運命愛の本質であり、不動心は自力で得るものではなく、運命愛によって神から与えられるものである」と主張してみたい気がします。(大丈夫かな・・・。)
次回はストア派における運命の定義について。
ちなみに近藤智彦氏の論文は「「運命愛」はストア的か?」『思想』2005年3月号、岩波書店 に所収のものです。
自省録 (岩波文庫)
マルクスアウレーリウス 岩波書店 2007-02-16
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