【宗教学の独学入門書に最適】田川建三『宗教とは何か』(洋泉社MC新書)を読む

大学で宗教学を学ぶ機会は稀である。

学べたとしても、キリスト教系の大学とか、仏教系の大学とかがほとんどだ。

そこでは建学の理念として、

  • カトリックなりプロテスタントなり
  • 日蓮宗なり浄土真宗なり

講義を半年ないし一年受けてそれっきりだ。

「宗教学とは何か?」というアカデミックな講義であるよりも、

  • わが大学の創始者であるとか

そういう教団チックな訓育といった趣きが強い。

 

さらに、宗教学を独学で学ぶには?

ただでさえ道を踏み外し易い宗教学。
学者が信者(信者が学者)であるという場合も非常に多く、学問と教義・知識とドグマの区別が、全く曖昧だ。

宗教学の入門には、どのような道をたどればいいものか?

宗教学を0から学ぶための文献とは

じつは既に文献リストをWebで公開してくれている宗教学者がいた。

本気で宗教学を学びたい人のための文献リスト(第二版)――江川純一のブログ

 

基本的にはこのサイトの★マークが付いているものから、適宜入手して読破していくのがいいだろう。

この中の★が付いている本の中でも、最初に登場して、特に目を引くものがある。

それが田川建三『宗教批判をめぐる 宗教とは何か(上)』洋泉社MC新書、2006年である。

古書店で見つけたら、すぐに買うこと。そして、三「「近代の克服としての宗教」批判 ─宗教学という逆立ち─」を必ず読むこと。

上記webページより引用

さてその本および関連書籍はこちら。

 

田川建三は新約聖書学者である。個人訳註で新約聖書を現在刊行中だ。

この著者、おもしろさはとにかく

  • 文章の歯切れのよさ。
  • 歯に衣着せぬ批評の痛快さ。
  • まじめな話かと思ったら他人の悪口。
  • 他人の悪口かと思ったら自分の愚痴。

お堅い本なのに、とにかく読んでて笑ってしまう。
おおまじめにギャグをぶっこむタイプのお人で、楽しい方なんだろうと思う。

田川建三『宗教批判をめぐる 宗教とは何か(上)』目次

目次は以下の通りです。

第1部 宗教を越える

人は何のために生きるか

「知」をこえる知―宗教的感性では知性の頽廃を救えない

「近代の克服としての宗教」批判―宗教学という逆立ち

 

第2部 異質の世界の無視

翻訳に現れた思想の問題(異質の世界の無視―いわゆる「共同訳聖書」の思いあがり

宗教はゆがんだ鏡―M.マホヴェッチのこと

難解は美徳か―E.ブロッホの誤訳とブロッホ自身

 

第3部 イエスを描くという行為

歴史記述の課題(遠藤周作のイエス像によせて)

附論

論争以前のこと―荒井献『イエスとその時代』の著作技術について

なんともおもしろそうな目次ではないか。

 

第一章「人は何のために生きるか」

上記ブログの江川純一氏は、第三章「近代の克服としての宗教」批判―宗教学という逆立ちをすぐ読むべしと言っていました。

しかし、いきなり第一部「宗教を越える」第一章「人は何のために生きるか」

これを読まないで生きていけるのか? 早速読みましょう。

 

人間は何のために生きるか、などという問いに対して・・・
そのように問うこと自体間違っている
そのように問えば必ず、人間存在以外の何か或るものを人間存在の目的として探すことになってしまう。

しかし、人間が何かのために生きる、などということがあってはならない。

 

人間存在の目的を問うことは間違っている。
「何か或るもの」が目的であるとすれば(例えばお金)、
それ(保有資産額)によってそれぞれの人間の価値が決まってしまうだろう。

 

人間の生は「何か或るもの」などをはるかに超えた巨大な質のものである。
人間の生をけちくさい「何ものか」のために犠牲にしたり、縮小したりしてはならない。
そのような基準によってはとてもはかることができない程度に、人間の生は、巨大で複雑な実態である。

「何か或るもの」を規定することによって、
「巨大で複雑な実態である」
人間の生は何か簡略にまとめられてしまう。

そのような抽象や還元を拒否する態度である。

 

ここで話題の転換。

 

これと似ているようでやや異なるのが、人は何によって生きるか、という問いである。
「何のために」という問いは、人間の生を何かある目的のために用いるという発想に立っている。
しかし、こちらの問いは、人間の生が何によって支えられているか、ということを問うている。
・・・こちらは十分に問うに値する事柄である。

 

「何のために」は目的の問い。対して「何によって」は根拠の問いである。

そして存在目的への問いは無意味だが、存在根拠への問いは有意味だと語る。

 

ところが、

 けれども実際には、こちらの問いも前者の問いとほとんど同じ質の事柄に還元されてしまうことが多い。何故か。
人間の生をつくるさまざまな構成要素(A)が
他のさまざまな構成要素(B)を生み出していくのだが・・・
(B)が、また力となって働いて・・・
(A)をさらに生かし、つくり上げる。
・・・つまり・・・人間の生の原因は人間の生であり、人間の生の結果として人間の生が生み出される。
因と果は分けることができない。

そして、この複雑多岐な働きの総体が人間の歴史である。

 

「複雑な実態」という認識を堅持している。

ところが、人は何によって生きるか、などと問うと、ついあわてて、人間の生の根拠なるものを人間の生の外に探すことになる。
あるいは、人間の生のごく一部分を外に投影して、そこから人間の生が生れて来るが如くに錯覚したりする。
・・・「何によって」がいつのまに「何のために」にすりかえられる。

 

<存在根拠への問いは有意味>と先ほど私は書いた。

たしかにこの言葉づかいでは、根拠を何か外から探してくるように想像してしまう。

自然とこのような言葉づかいをして、自然と想像する。これはある種のイドラである。

 

さてすりかえが起こるとどうなるか。

人間の生の外にあるもの、あるいは外にあると錯覚した人間の生のごく一部分の抽象、によって人間の生の全体をとりしきろうとすれば
人間の生に対していやらしいゆがみをもたらすことになる。

 

さらに

そういうゆがみに我慢することができる人がいるとすれば、
その人は、思想においてはそういうことを真理として説きながらも、
自分自身の食って寝る現実の生活は、自分の思想と切り離してある程度円満に充実していとなむことができているからである
・・・食って寝る生活がとりあえず豊かに、心配なく維持されるように保証されているから、
それと無関係なところで抽象的に人生の目的だの根拠だのについての思念をもてあそぶことができる。

 

これは政府政治家、宗教家、人生論を説く作家・学者・評論家を批判している文脈である。

しかしながら、「食って寝る生活」というものに重みを置いているのがうかがえよう。

大部分の人間にとってはそうはいかない。
最大限の努力をすることで辛じて食って寝る生活を維持しているのだし、それすらしばしば不安にさらされる。
そういう人たちにむかって、生活の現実から離れた抽象的な人生論を説教して、生活の基盤から目をそむけるようにしむけるのは、思想的な収奪、観念の搾取というべきことである。

・・・もしも人間の生とは何か、などとたずねられたら、それは人間の生の全体である、と答える以外にない。それ以外の答は危険である。

 

これらを踏まえてカウンタートークが炸裂する。

人は何のために生きるか、なんぞとたずねられたら・・・
敢えて鮮明に、我々は食って寝るために生きる、と私は言う。

人は何によって生きるか、なんぞとたずねられたら、我々は食って寝ることによって生きる、と答える。

人間は食って寝ることによって生きる活力を獲得し、さらに無事に食って寝ることができるように働く。

 

これは宗教学の本である。

続きはこちら。

(関連記事)田川建三『宗教とは何か』第一章「人は何のために生きるか」

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