プラトン『国家』のテーマとは(3):プラトン正義論の戦略

      2017/03/01

これまで2回にわたって、プラトン『国家』のテーマについて考察してきました。

着目した箇所は、『国家』第2巻の冒頭、プラトンのお兄さんであるグラウコンとアデイマントスの二人が、ソクラテスに対して「正義をそれ自体として価値があるものだ」と証明してほしいと頼む場面でした。

頼むにあたって、二人はものすごい仮定をしました。

それを一言で表せば、「どう考えても不正をした方が得なんですけど、それでも正義を守る意味がありますか」というものです。

どんなに不正をしても絶対にばれない。あの世でも神様に許してもらえる。

こんな状況だったら、そりゃあ正義を守る意味なんかないですよね。むしろ、こんな状況での正義って何なのか分からなくなります。

 

さて、二人の議論・二人の挑戦をまとめましょう。以下の4点にまとめられるかと思います。(詳しい内容は前回記事に書きました。)

1.「ノモスとピュシスの対立」というソフィストの議論により、従来の正義は根拠なしとされた。
2.正義を守る根拠は見返りによるのだから、不正を行える状況(ギュゲスの指環)において正義は守られない。
3.不正を極めることが、この世でもあの世でも幸福であると、従来の伝承からも確認できる。
4.正義を守る人生には消極的な意義しかなく、積極的意義が全くない。

 

さて、グラウコンとアデイマントスの二人は、ここまで正義を貶めました。

そしてソクラテスに「それでも正義は価値がある」と主張してくださいとお願いしています。実際、ソクラテスも弱り果ててしまいます。

さて、実際に『国家』を執筆したのはもちろんプラトンですが、あまりにも問題を大きくしてしまってはいないでしょうか。

こんな大きな問題をぶち上げて、まともに答えられるのでしょうか。どうやって正義を弁護するのでしょうか。

 

この状況で正義を弁護するには、「ノモスとピュシスの対立」を根底から覆さなければなりません。

しかしそうするには、現状の国家・市民の中では間違った前提が多すぎるとプラトンは考えたに違いありません。

だって、それはアデイマントスの議論によって証明されてしまいました。不正の人でも、神々にお供えをして、お祈りをすれば許してもらえると、アテナイの市民はみんなそういう言い伝えを聞いて育っているのですから。

既存国家の伝統の上に、正義を弁護することは難しい。かと言って、理想の国家を物語風に描写したところで単なる理想論や社会風刺の枠を出ません。(トマス・モアから始まる近代のユートピア論が好例です。)

それゆえ、哲学的議論によって、国家や人間のあるべき姿を語り、語るごとにグラウコンとアデイマントスの同意を取り付けつつ、その理想の国家およびその実現可能性を一から作ることを試みたのだと考えられます。

 

このようにプラトンにとってノモスとピュシスの対立との対決、つまりソフィストによる議論との対決は避けられないものでした。

とはいえ、反対にこれらを解決できれば正義を讃える言論に根拠を持たせることができます。この世で生きる人間が、自身の心に僭主的な欲望を持つのは否定できないとしても、だからといって不正をしていいことにはならなくなります。(現代の私たちが法を守るのは、逮捕されてしまったら損だからという実に情けない理由によると思います。)

 

「ノモスとピュシスとの対立」というソフィストの議論を退けるにはどうするか。プラトンはこう考えたのだと思います。「ノモスとピュシスは一致する」という主張ができればよいと。

もしこの主張が成功すれば、少なくとも人間の自然本性が「より多くの利得の獲得」だけではなく、「法と秩序を守ること」も関係してくると言えるようになるでしょう。

 

ふたりの議論、ふたりの挑戦をまとめると以下のようになるでしょうか。

グラウコンの挑戦は、ノモスとピュシスの対立をあらゆる人々が暗に認めていることの証明である。

アデイマントスの挑戦は、対立を認めているにもかかわらず、むなしく正義を守る、あるいは奉ずる人々への批判である。

 

なぜむなしいと言ったかというと、このような「強者が正義である」や「ピュシスとノモスの対立」といった思想が行き着く先は、同じく『国家』の登場人物であるソフィストかつ政治家のトラシュマコスや、『ゴルギアス』の登場人物であるカリクレスが示してくれたように、強者を目指すか、弱者に甘んじるか、いずれかでしかないからです。

にもかかわらず、多くの人々はそのどちらにもならず、議論が必然的に導く自身の生き方を避けています。

ちなみにカール・ヒルティという近代ドイツの思想家に次のような叙述があり、この記事の考察と親和性があるかと思うので、引用します。

倫理的世界秩序に対する信仰を持たないダーウィン学派の自然科学的な見解を倫理的に言い換えれば、「強者は常に正しい」「権力は正義である」ということにほかならない。

その世界観の中では厳密に言えばひとは利己主義者であるか、偽善者であるかのほかはない。

それなのに多くの人が、なおそのどちらにもならないのは、自分の哲学の完全な結論を引き出すことを避けるからである。

ヒルティ『幸福論』第一巻第七章、岩波文庫より

 

 

さて、ノモスとピュシスが対立しているのであれば、利得ゆえに徳や正義を愛するレベル以上にはなりようがありません。

このソフィストの設定した図式に陥っているかぎり、正義をそれ自体として愛することはできません。したがって、そういう人々は偽善者か消極的快楽主義者でしかない、ということになります。

二人の挑戦は、人々の心の奥にある「ピュシスとノモスの対立」思想を浮き彫りにさせます。にもかかわらず、多くの人々は、相変わらず自分に害の及ばぬ範囲で正義を守ろうとします。

トラシュマコスやカリクレスは、そういった自己欺瞞・自己矛盾的な点や、生への無関心・みじめな利己主義を痛烈に批判しました。

だからこの点に関してなら、通常ソフィスト的でろくでもない議論をする人物と目されているトラシュマコスやカリクレスは、かえって評価されるべき人物であるかもしれません。彼らは自分の思想の行き着く先を妥協なく見据えているという点において。(ただし議論のための議論をしている可能性もあって、言い切れない部分はあります。)

 

正義を守り奉じる人々の思想の行き着く先に、利得は無縁のはずです。にもかかわらず、(グラウコンが示したように)死刑にされると思えば皆が慄き、妥協しまいます。

このことは、本当に正義を奉じるにはそれだけの覚悟がいるということを示しています。人間はともすれば易きに流れ、見返りを求めようとします。自分はこれだけ正義を守って日々生きているのだから、報いがあっていいと考えもします。

それは仕方がないし、言っていることに嘘はないでしょう。しかし、この心こそが、ほかならぬ「永遠の酩酊」(アデイマントスの挑戦)を求める心なのです。

 

こうしてみると、いったいプラトンはどれほどの覚悟をもって『国家』を書くに到ったのでしょうか。『国家』の序盤でこの挑戦を自らにたたきつけることが、どれほど自分に不利に働くことでしょうか。

 

そして二人の挑戦は、著者プラトンのみならず、読者として『国家』を読み解く人々、また私たちが抱いている「正義に対する認識」を試しているように思います。

 

 - ギリシア・ローマ哲学 ,