【ストア派倫理学の要約と解説】究極善と自然法の一致

加藤信朗「ヘレニズムの哲学」を参考に、ストア派の学説についてを概観してみます。
※(服部英次郎、藤沢令夫編『岩波講座哲学16』岩波書店(1968)所収)

ストア派の学説は、論理学・自然学・倫理学の3つに大別されます。

前回までに、論理学(認識論)・自然学について概観しました。今回は、倫理学について。

 

(4)倫理学――究極善(telos, summum bonum)

究極善は「自然と一致して生きること」または「自然に従って生きること」と規定される。究極善とは「そのために他のすべてのことがなされ、それ自身は他の何もののためにもなされることのないもの」すなわち行為の究極目的である。

自然と自然存在者の間にある一致の関係を、自然存在者自らが承認し、同意するという内的な自由の行為によって、「自然との一致」は実現される。このような内的な行為をなすものは理性である。これは自然が自然存在者における理性を通じて自己へと還帰してくる道であるとともに、自然存在者が理性によって自己の存在の根拠へと自覚的に還帰する根源還帰の道である。こうして、究極善としての「自然との一致」とは行為の究極目的であると共に、自然の究極目的でもあった。倫理学とは、理性によるこの根源還帰の道筋を明らかにするための哲学の手立てである。ストア倫理学の種々の命題はすべて、この究極善との関わりにおいて解釈される。

 

(4.1)衝動(hormee)

自然の自己還帰を可能にする端緒は自然衝動(hormee)にある。生き物にとって、まず自分自身のものとして属するのは、生き物自身である。すべての生き物はこれを知り、自己の存在を害するものを避け、自己の存在を助けるものを求める。理性を持たない生き物の場合、この自然の衝動は思考の働きを伴わない本能である。しかし理性的存在者である人間の場合には、自然の衝動は理性の承認を伴った理性的な衝動である。衝動は想念によって惹き起こされる運動であって一見非理性的に見えるが、想念は人間においては承認が与えられない限り衝動を惹き起こす力を持たない。人間において「自然の衝動は承認を伴わずには存在しえず」それは行為を主宰するロゴスの働きである。この承認が誤らずに自然の理法にかなったものとなるとき、理性的存在者が自らより発してなす「自然への随順」が実現される。賢者において自然の自己還帰は完成し、賢者は一つの自然的存在者でありながら、根源である自然そのものと一となる。これは神と等しい生、完全な幸福の生である。自然のままなる「穏やかな生の流れ(euroia biou)」があり、それが有徳の生である。

 

(4.2)「情念(pathos)」

自然衝動は生き物の保全のために、自然によって与えられたものである。これが時に必要な程度を越えて勢いづくことがある。この「過度の衝動(hormee pleonazousa)」が「情念」と呼ばれる。自然に応じた衝動は歩行に喩えられ、情念は疾走に喩えられる。疾走している人は容易に制動できず、理性の命令に服さぬもの、非理性(alogos)であり、反自然である。すべての衝動は「理性の判定(krisis)」であるが、情念は「誤った判定」によって惹き起こされるもので、理性の誤った使用、「理性の歪曲」であるという点で非理性的である。このような理性は劣悪な非理性的な理性である。このため情念は心の病と言われる。
しかし本来自然から与えられた理性の働きになぜ誤りが生じるのか(悪の起源の問題)については、ストア派の哲学者たちは現存資料から判断すれば重要視しなかったようだ。自然における反自然の由来を問わず、ただ事実を認め、この事実の除去のためにストア哲学は捧げられた。

情念は、1.苦痛(lupee)、2.恐怖(phobos)、3.欲情(epithumia)、4.快楽(heedonee)の四種に分かれる。

苦痛の種類は憐憫、嫉妬、悲嘆、苦悩などである。恐怖の種類は恐怖(デイマ)、逡巡、羞恥、驚愕などである。欲情の種類は貪欲、嫌悪、競争心、憤怒、恋慕などである。一方、快楽の種類は魅了、他人の不幸を喜ぶこと、欣喜、恍惚感などである。

これらの情念はすべて自然の生の「穏やかな流れ」を乱すものである。情念はすべて想念に関する理性の判定の誤りであり、これは善悪の本性に関する誤った臆断より生じる。そのためには想念を正しく見分け、想念に与えられる対象の善悪を正しく見分けなければならない。そこで、情念を脱却して自然との一致に達するための道の第一は善悪の弁別にある。

 

(4.2)善、悪、善悪無差別なもの

存在するものは1.善いもの(agathon)と、2.悪いもの(kakon)と、3.善くも悪くもないもの(adiaphoron)の三つに分けられる。善いものは知恵、公正、勇気、節制その他の徳(aretee)であり、悪いものは無知、不正その他の悪徳(kakia)である。これらいずれでもないもの、生死、健康と病気、快苦、美醜、力と無力、貧富、名声と不評、生まれの良さ悪さなどは第三の種類に入れられる。

善とは第一に「役に立つもの(oopheleia)」のことである。本当の意味で役立つものは、幸福(eudaimonia)に役立つものだから、善でありうるものは徳だけである。なぜなら徳だけが人を幸福にしうるもので、またそれだけで足りるものと考えられるからである。悪はその反対、幸福を害するもの、すなわち悪徳だけである。

徳はまた、それ自身としても善い「自体的な善」であり、また「美なるもの(kalon)」である。この意味における善は「何かのために役立つこと」ではなく「それ自身のために選択に値するもの(to di hauto haireton)」で、自己目的性、自己完結性が備わっている。善や悪以外のものは、「(善悪)無差別なもの」と呼ばれ、人を真に幸福にも不幸にもしないものと考えられた。

ここにストア派の厳粛主義(Rigorismus)の倫理といわれるものが成立した。善の超越性に関するこの説の特徴は大きく三つある

1.善の唯一性。善はただ一つの徳として把握され、種々の徳は便宜的なものであり、真実には知恵のみである。
また善の超越性は、種別の多様性だけでなく、程度の段階も許さない。「善はすべて同等である」といわれ、善の量に大小が認められない。それゆえ、人は徳を所有するか、しないかのいずれかであり、幸福であるか、不幸であるかのいずれかであり、中間は存在しない。

2.善と行為の連関。善は行為の究極目的であり、外的なものは善ではないから、内的行為の対象・自己との関係としてのみ捉えられる。善は内的行為の目的として自由の根拠である。善は行為の究極目的として、理性の承認の働きを内的に規制する根拠である。また、それにより、善は自足的なもの(autarkes)である。善の自己目的性は内的行為という場面においてのみはじめて充足される。なぜなら、善は内的行為の究極目的として行為を内的に規制するものであると同時に、内的行為において実現される徳そのものが善だからである。すなわち、善は自由の根拠とともに、その結実である。これが幸福にほかならない。倫理学の原理の主観主義への転換はこうして幸福論を基礎付けるものとなる。

3.善と存在の連関。行為のうちに本質的に含まれている自己連関は行為者の存在の自己還帰性に基づき、自己の存在の根拠としての存在論的基盤への転向がストア哲学の根本動向である。自己存在の根拠は自然存在としての自己存在の根拠である自然そのものである。それゆえ「自然との一致」が行為の究極目的としての善として立てられた。善なる行為とは存在の根拠(自然)への還帰である。

 

(4.3)自然法

善が超越的なものとして捉えられるとき、善は唯一のものでしかあり得ないが、われわれの行為は日々に新たな異なるものである。行為はその実行において個別的であり、個々の状況に応じて千差万別である。個別の行為において超越的な唯一の善が実現されるためには、個別行為を律する規準が必要である。この規準は「自然に従って生起するものの経験」に従って、「自然にかなったもの(to kata phusin)」が何かをその場その場において定めてゆくことによってしか確かめられない。そこで善の超越性に関わる「目的論」とは別に、善の実現に関わる「行為論」が立てられる。「優先されるもの」の論や「適切な行為」の論はこうして生まれた。これを善に関する主観主義と客観主義の間の矛盾と捉えることもできるが、この矛盾はむしろ事象そのものの内に基づくものである。

ここにおいてストア派の倫理説における主観主義と客観主義の両面性が顕著である。行為が自然存在者における自己の存在の根拠(自然)への還帰である意味において、行為者のよって立つ存在論的基盤の証明は、行為が正しいものとなるために不可欠であった。それが行為の適切さを測る規準としての「自然にかなったこと」であった。これが自然法の淵源である。

「優先されるもの」の説は、個別的な行為を「自然にかなったもの」として導くための便宜的・相対的な価値の規準を与える説である。たとえば生命は通常「優先されるもの」であるが、ある状況においては放棄されるべきものであるから、これは善ではない。むしろ個別的な行為が個別的な状況において自然にかなったものとしてなされるときに、この行為は徳にかなった行為であり、「適切な行為(katheekon)」「正しい行為(kathorthooma)」と呼ばれる。適切な行為は便宜的な規準としては「優先されるもの」に制約されているが、本質的には究極目的、善に向かう行為にほかならない。すなわち、適切な行為、あるいは行為の適切さとは、個別的な形で現れる「断言的命法」であり、ストア倫理学の主観主義的側面である。ストア派の哲人たちが選んだ「生からの、理由ある逃走」(自殺)もこの側面を示す一例である。このようにして、「優先されるもの」の説と「適切な行為」の説は、ストア倫理説において、善の超越性の説が必然に帰結した状況倫理学的な説である。

 

(4.4)賢者崇拝

以上からストア派における賢者の理想に対する崇拝が出てくる。賢者とはその個別存在において、根拠である自然との完全な一致に到達した人のことである。行為の正しさはこの自然との完全な一致によってのみ得られるから、賢者のみが正しく行為しうるものである。賢者は誤謬に陥ることのないもの、完全な幸福をもつもの、神のごときもの、いや一つの神である。

これが自然への還帰によってストア哲学が行き着く終極である。このような知恵が人間に拒まれているならば、ストアの哲人は絶望と傲慢の道の中に残されるほかはなかった。ストア哲学が哲学の本道から逸脱し、「非情(apatheia)」の心術として硬直化の一途を辿った理由はここにある。

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