スコセッシ監督の『沈黙』を観ました。遠藤周作の同名小説を原作とするハリウッド映画です。
『沈黙』のあらすじについては以下で書きました。ほぼ原作に忠実な映画でした。
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映画『沈黙』の特徴とは
まずは客観的な特徴を。予告編も素晴らしいので、以下の公式サイトよりご覧ください。
長い上映時間でシリアスな展開が続く
3時間近くある長編映画で、予告も入れたら3時間を超えるかもしれません。
コメディー要素はギャグは、割と序盤にたった1つあるだけ。(片桐はいり)
音楽もほとんどなく、緊張したシーンが長時間続くので、観ていて疲れるかもしれません。
拷問の描写が出てくる
隠れキリシタンの弾圧や拷問が描かれています。
原作小説にもありますが、干潮の海岸にはりつけにするという描写が映画でも出てきます。
隠れ切支丹の農民たちが海の波に苦しむ描写が1~2分程あります。はりつけにされてから、命を落とすまで全体は4~5分。
こういった残酷な描写が苦手な人にとっては、直視するのがきついかもしれません。
ただし必要な描写ではあります。水責め拷問の苦しさが、観客にも伝わってきますし、これは『沈黙』において伝えなければならない描写です。
遠藤周作の優れた技量により、小説の文字だけでも結構な苦しさなのですが、映像+音響でやられると、さらに臨場感があります。
そのほかにもムシロを全身にまかれて海に落とされたり、地面に穴を掘って逆さ吊りにするといった拷問も出てきます。
ひたすら無力な人々
イッセー尾形演じる井上筑後守は、ロドリゴに言います。百姓の連中は愚かだと。自分では何も決められないと。
そういった、隠れキリシタンの農民たちの無力さが描かれます。
踏み絵を踏めと言われても踏めない。拷問にさらされる同郷の者を助けることもできず、見ているしかない。反逆することなんか考えることすらできない。
ちなみに『沈黙』の年代設定は、江戸初期、島原の乱(1637-38)の直後とされています。島原の乱は天草四郎を指導者とする、最初で最後の大規模キリシタン一揆と言われていますが、その反乱軍が幕府軍によって鎮圧されて以降、おそらく一層キリシタンたちの無力感は強まったのではないかと想像されます。
遠藤周作は無力な人間を描くのが大好きですが、というかそれしか書いていませんが、農民たちの無力さ・愚かさは、必ずしも遠藤周作の独りよがりではないかもしれません。
映画『沈黙』の見どころとは?
以下は個人的な感想であったり、観ていて考えさせられたことのまとめです。
死について考えさせられる
水責め拷問のシーンなどに代表されますが、観ていて苦しいシーンが出てきます。
これは私たちが死ぬという、どうしようもない現実を思い出させるのに役に立ちます。
死の苦しみや恐怖を感じると、今現在やこれからの生について絶望しそうになります。このテーマについては、パスカルが余すところなく伝えています。
この世に真の堅固な満足はなく、われわれのあらゆる楽しみはむなしいものにすぎず、われわれの不幸は無限であり、そしてついに、われわれを一刻一刻脅かしている死が、わずかの歳月の後に、われわれを永遠に、あるいは無とされ、あるいは不幸となるという、恐ろしい必然のなかへ誤りなく置くのであるということは、そんなに気高い心を持たなくとも理解できるはずである。
これ以上現実であり、これ以上恐ろしいことはない。したいほうだい強がりをするがいい。これがこの世で最も美しい生涯を待ちもうけている結末である。
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『沈黙』を観ていると、信仰のために弾圧されて命を落とすことが、全くバカバカしく思えます。これは主人公ロドリゴが感じたことでもあります。
このあたりの描写に、おそらくカトリック教会などは「けしからん」と怒るのかもしれません。
しかし、遠藤周作の描く神父の苦悩であったり、細やかな心情が鬼気迫るリアリティを帯びて読者に迫ってくることは間違いありません。
なぜ農民たちは信仰を守り通して命を落とすことができたのか?
それは直接語られるわけではありませんが、おそらくパライソ(パラダイス)信仰ではないだろうかと感じられます。
映画『沈黙』の中でも、百姓たちが、ロドリゴやガルペにパライソは苦しいこともなくて、豊かに暮らせるんですよねと尋ねるシーンがあります。
現在の苦しみを乗り越えることで、来世で楽園・天国に入れるという信仰。しかしカトリックの教えでは天国は準備中であり、魂が直ちにパラダイスへ行くわけではない。
ロドリゴたちが農民たちが教えを誤解していることにやや懸念を抱く様子が描かれています。
また、日本人は神の概念を理解できない、とフェレイラがロドリゴに話したりもします。
たしかに、来世での極楽を期待するパライソ信仰のみであるとしたら、浄土思想とあまり変わらないように思えます。
極楽浄土ではダメで、キリシタンでなければならなかった理由は、おそらくあるはずです。
キチジローの行動や考えが理解しがたい
日本人の中では主役級なのが、キチジロー。ロドリゴとガルペの案内で日本に入り、ひたすら棄教と告解を繰り返し、ロドリゴについてくる。
キチジローが何を考えているのかは、不可解なものとして描かれており、ロドリゴも理解に苦しみ、キチジローを厭います。
自分は弱い人間である。信仰のために命を投げ出せない。家族を裏切り、村を裏切り、神父も裏切る。踏み絵を踏み、十字架に唾吐く。
それでもキチジローがしつこくしつこく神父ロドリゴに付きまとって、罪の懺悔を求める理由はなんだったのか。
その理由は分からないながらも、映画を鑑賞した人々にとって謎として残るような気がします。
同伴者キリストという遠藤周作の思想
これまでも多少はネタバレしていますが、以降は核心的な内容に少しだけ踏み込みますので、注意してご覧ください。
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ロドリゴは棄教したのち、岡田三右衛門を名乗るように命じられ、江戸で生活します。
『沈黙』の舞台は長崎でしたが、キチジローは江戸にまで来て、ロドリゴ神父との交流を続けます。
そしてロドリゴは最終的にキチジローへ「一緒にいてくれてありがとう」と言います。
これは「同伴者キリスト」とでも言うべき、遠藤周作の思想が色濃く反映したセリフです。
遠藤周作のイエスや神は、徹底して無力です。
- イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。…奇跡などはできなかった。
- 現実に無力なるイエス。役に立たぬイエス。
- 現実には力のなかったイエス。奇跡など行えなかったイエス。
遠藤の「イエス」は終始一貫、頑強に、絶対に奇蹟など行わなかった人物なのである……これこそ、古代人の奇跡信仰に対して、近代人の通俗的心情からけりをつける視点にほかならない。
新約聖書学者の田川建三による遠藤周作『イエスの生涯』の批判的書評では、遠藤の描くイエスの本質を次の記述に求めます。
イエスは群衆の求める奇跡を行なえなかった。湖畔の村々で彼は人々に見捨てられた熱病患者のそばにつきそい、その汗をぬぐわれ、子を失った母親の手を、一夜じっと握っておられたが、奇蹟などはできなかった。そのためにやがて群衆は彼を”無力な男”と呼び、湖畔から去ることを要求した。だがイエスはこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は彼等を愛する者がいないことだった。……必要なのは”愛”であって病気を癒す”奇蹟”ではなかった。
福音書ではイエスの病気治癒のエピソードが多数出てきます。病気治療こそがイエスの奇跡の主たるものであり、また人々がイエスを信じた理由でもありました。
それに対して遠藤の描くイエスは、熱病患者を癒すことはできず、ただそばにいて、病人の手を握っているだけ。これが「同伴者」的な思想です。
さらに、ロドリゴが踏み絵を踏むときも、なぜか沈黙を破り、「私はお前とともにある」という言葉がロドリゴに聞こえてきます。まさに同伴者。
そして最後にキチジローへ、ロドリゴが「一緒にいてくれてありがとう」。
イエスも、沈黙を破った神も、キチジローも、徹底的に無力であるが、苦しむ人々のそばにいる。
これは遠藤周作に特有の思想であり、聖書の記述とも、カトリック教会の教義とも異なるものであると見なされているようです。
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このような問題があったとしても、小説としての『沈黙』小説は、疑いようもない傑作です。
神父の苦悩であったり、農民の苦しみであったり、幕府側の人間の心情の機微などが、細やかに描かれており、こうしたことは小説でなければできないし、遠藤周作の小説家としての力量を思い知らされます。
したがって、原作にほぼ忠実であった映画としての『沈黙』も、エンターテインメント性はほとんどないにもかかわらず、鑑賞すれば傑作であると感じずにはいられないでしょう。
スコセッシ監督は、黒沢明の『夢』に出演するような映画監督なので、芸術志向が強く、映画『沈黙』も優れて芸術的な作品となりました。
もし映画化にあたり、物語にアメリカン的な、ハリウッド的な大胆改変を施すのであれば、神が奇跡を起こしてもよかったかもしれません(笑)ただそれはもう『沈黙』ではなく、別の作品でやれと言われますね。