ギリシア哲学といえば、ソクラテス。ソクラテスといえば、無知の知。
「無知の知」という言葉は、世界史や倫理の教科書にも登場する有名な標語です。
哲学徒ならずも、「ソクラテス=無知の知」という記憶をお持ちの方は多いと思います。
しかし、驚くべきことに、その「無知の知」やそれに類する言葉を、ソクラテスはただの一度も言っていません。
エア新書のガッツ石松さんだけです。
「無知の知」という概念は、ソクラテスに対する誤解だと主張する学者がいます。
そんな重要な主張をしたのは、納富信留さんという東大の哲学教授。
納富信留『哲学者の誕生』の記載を紹介していきます。
動画でも解説しました。
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「無知の知」という言葉の由来
そもそも「無知の知」という言葉は、ソクラテスとは一切関係のない由来を持った言葉です。
それがいつの間にか、ソクラテスと結び付けられた。
そして「ソクラテスの哲学の根本概念を表す言葉として定着してしまった」というのが真相です。
「無知の知」という言葉の由来は、
ニコラウス・クザーヌスのdocta ignorantiaという言葉の翻訳として発生しました。
クザーヌスは近世のキリスト教思想家であり、”docta ignorantia”というタイトルの著作があります。
そのdocta ignorantiaを受けた日本語訳として、「無知の知」と訳されました。
つまり「無知の知」とは、ソクラテスに帰される標語ではない。
そもそもは、ニコラウス・クザーヌスに帰される標語として登場したのです。
その証拠が、大正11年に出版された『岩波哲学辞典』(宮本和吉編)。
その辞典では「無知の知」の項に「ドクタ・イグノランチアの訳語」とだけ記載されています。
つまり大正時代には「無知の知」という項目があるにも関わらず、ソクラテスには言及されていないのです。
歴史的経緯:「無知の知」=ソクラテスと結びつけたのは戦前の大哲学者高橋里美
納富氏によれば、「無知の知」をソクラテスと結びつけて解説した最初の例は、高橋里美という近代日本の哲学者(男性)の叙述です。(昭和4年)
「ソクラテスは知の所有者をもって任じていたソフィストに対して、我はただ知を求めるものであるとして意識的に自己を彼らから区別した。
真に知を求むるものは、先ず自らが何ものも根本的には知らぬことを知らねばならない。自己の何者であるかすら知らぬものでなければならぬ。
これを「無知の知」 docta ignorantia というのである。それで学的高慢ではなく学的謙遜こそ哲学者の名にふさわしい態度である」
この高橋里美の理解が、「無知の知」というわかりやすい標語のもとにキャッチフレーズ化。
そして、一般に流布したのだろうと、納富氏は推測します。
ここまでで確認できたことは3点。
- 「無知の知」という言葉自体は、元々はソクラテスとは関係なく出てきたこと。(クザーヌスの著作の題名)
- 昭和初期に高橋里美という哲学者が、ソクラテスの哲学の本質を「無知の知 docta ignorantia」と結びつけたこと。
- 高橋里美の理解が、おそらくキャッチフレーズ化して一般に流布したこと。
「無知の知」という言葉は何が間違いなのか? 3つの根拠
さて「無知の知」が本来ソクラテスとは関係ないことはわかりました。
でもソクラテス=無知の知という、高橋里美の理解。
「別に間違いではないんじゃないの?」
という考えもあるかと思います。
納富氏は「無知の知をソクラテスに帰することが誤りである」と強く主張します。
しかし、この有名な標語は、驚くべきことに、ソクラテスの理解としては完全な誤りである。私の信じるところでは、この誤りは哲学の始まりを妨げる大きな害悪である。この尋常でない事態は……耳に心地よいキャッチフレーズに、私たちが無反省に寄り掛かってきたためとしか考えられない。
このような強い語調を繰り返す納富氏。
以前、納富氏を「血気盛んな東大教授」と表現しました。
しかしそれは、別に納富氏がビッグマウスだとか、そういう意図はありません。
(関連記事)血気盛んな東大教授が勧めるプラトン入門のための読書案内
さて、「無知の知」が誤りだという根拠を、納富氏は3つ示します。
- 文献的証拠
- 哲学的考察
- 歴史的経緯
この3つです。
このうち歴史的経緯については、じつは上述しました。
元々は「無知の知」はクザーヌスに由来しているという事実を指します。
とりわけ重要でかつ決定的な証拠は「文献的証拠」。
なので、それを紹介致します。
文献的証拠:「無知の知」という言葉は一度も出てこないという決定的証拠
無知の知という言葉は、プラトン対話篇の中に全く現れない――
もうこれだけでQ.E.D.としてもいいくらいなのですが、納富氏は丁寧に説明します。
ソクラテスはアテナイの知者(知識人)たちと「善とは何か」などと対話し、世の知者の無知を暴いていきます。
これらの世間の知者は、善とは何かを知らないのに、ソクラテスと対話し、論駁されるまでは、知っていると思い込んでいました。
それに対しソクラテスは「自分は善とは何か、全く知らない」と自覚していました。
つまりこんな対応になります。
世間の知者:知らないのに、知っていると思っている。
ソクラテス:知らないから、そのとおり知らないと思っている。
それが「無知の知」という理解で対応させるとどうなるのか。
世間の知者:知らないのに、知っていると思っている。
ソクラテス:知らないから、知っている。
ソクラテス側に「思っている」が欠如したこの対応。
これは明らかに「不釣合い・不整合」であると納富氏は考えます。
※「知らないのに、知っている」なんて違和感が半端じゃないですよね。
ここで重要なのは、ソクラテスが「知らないことを、そのとおり知らないと思っている」という部分。
ソクラテス(プラトン)はこの手の言葉を発するときは、必ず「思っている」と書いています。
マジですよ。
「知らないことを、知っている」というフレーズはありません。
「知らないことを、その通り知らないと思っている」です。
間違えて「思っている」という単語を抜かしちゃった。
こんなことプラトンの全ての著作を通じて1度もありません。
「あ、やっべえ、うっかりうっかり。」なんてないのです
ということは、プラトンはここの言葉遣いをものすごく気をつけていたことが分かりますね。
つまりソクラテスは、
「無知を知っている」のではなく、
「無知を自覚している」「無知を認識している」のです。
哲学的考察:「無知の知」と「無知の自覚(不知の自覚)」の違い
ソクラテスは無知を自覚している。
これは、正確には「不知の自覚」と表現します。
プラトンは「無知」と「不知」という言葉も、古代ギリシャ語で厳密に使い分けています。
- 無知:アマティア
- 不知:アグノイア
自分が「知っている」と思いこんでしまっている者は、もう学ぶ必要はないと考え、それ以上の探求を行わない。
そのような頑固な「無知」こそ、私たちの知を愛する途を閉ざす恐るべき害悪である、とソクラテスは常々警告していた。 納富信留『哲学者の誕生』より
プラトンは本当に、厳密に使い分けているので、例を見てみましょう。
「いわば何一つ知らないのに、すべてを知っていると私たちは思い、知識のないことを他人に頼ることなく、自分自身で行なって必然的に誤ってしまう」(『法律』第5巻732Aより)
これが、無知アマティアのほうですね。
今度は決定的な使い分けです。
というのは、悪しく無知なる者は誰1人、知を愛することがないから。
残るのは、この悪、つまり、不知を持ってはいるが、未だそれによって不知で無知なる者となってはおらず、知らないものを知らないと考えている者である。」(『リュシス』218Aより)
「無知の知」ではなく「不知の自覚」。
これがソクラテスの哲学の本質であると納富氏は考えます。
(もちろん正確にはもう少し複雑ですが。)
これに抗して、知へのかかわりにおいて自己の思いを限りなく透明にすることこそ、ソクラテスが生涯をかけた哲学の営みなのであった。
不知と無知。この違いは、些細なように見えて重大です。
なぜなら「自分が無知であることを知っている」というのはある種の知識と言えます。
ですが、その知識の内容は「全く空虚なもの」だからです。
ソクラテスにとって知識とは「言葉で説明可能・表現可能」なものです。
たとえば「医学の知とは何か?」といえば、
「健康と病気についての知」と言えます。
しかし、「無知の知とは何か?」といえば、
一体何についての知識でしょうか?
「知らないことについての知識」なんて、内容空疎な矛盾ですよね。
「無知の知」という表現は、「知の知」といったような「知より高次な形態=メタ知識」を想定する思想が隠されています。
しかし、プラトンは、このような「知に対するより上位の知」という概念を徹底的に批判しています。
その批判は『カルミデス』という対話篇に詳しく書かれています。
おわりに 「無知の知」は相変わらず使われ続けている
以上のように、「無知の知」が誤りであると納富氏は主張しました。
そして「無知の知」という標語の使用を控えるように提言しています。
「無知の知」という言葉が誤りであり、それを「不知の自覚」と修正すること。
これを訴えたいと思います。
無知の知という表現それ自体が、なにか「より上位の知のあり方が存在する」ようなニュアンスを含んでいます。
哲学者の宮崎裕助氏が、Twitter上で、拙記事にご感想をくださいました。
問題の「無知の知」批判は、そうした確実性をも前提とせずに自己のありかたを問いに曝してゆくということです。
「いわゆる無知の知は、自己知の確実性を示唆する」
本当に鋭いご指摘で、目の覚めるような思いがしました。
だからこそ、無知の知という言葉は、重大な誤解を招く危険性があるのです。
なので、ソクラテス=「不知の自覚」と言いましょう!
「不知の自覚」という標語であれば、ソクラテスの知のあり方を正しく伝えてくれるニュアンスを持っています。
納富氏が始めに「無知の知」批判を公にしたのは、2003年です。
(「ソクラテスの不知――「無知の知」を退けて」という論文。「思想」に掲載。)
しかしながら、現状は相変わらず、世界史や倫理の教科書でも使われ続けています。
加えて、学者の書いた一般書でも「無知の知」は使用され続けています。
しかも、驚くべきことに、納富氏の以上の主張に対し、真っ向から応答した学者は今のところ皆無です。
納富氏の主張に、何の応答もせずに、
一般向けの哲学史の書籍などで「無知の知」という標語を使い続ける学者もかなりいます。
「無知の知」が誤りであるという納富氏の主張は、およそ15年の間、無視され続けているのです。
納富氏が強い語調で誤りであると繰り返したのは、こういう黙殺された事情があるのかもしれません。
納富氏の主張を、ほかのギリシャ哲学研究者たちが「どれほどひどいシカト」をしているか?
何冊かの本で検証してみました。
笑っちゃうほど露骨すぎるので、よかったらご覧ください。
【無知の知批判】東大哲学教授の証明は学者たちに15年間無視されている