無知の知は誤りだ――15年間黙殺され続ける東大教授の証明

      2017/03/01

ソクラテス人形

 

ギリシア哲学といえば、ソクラテス。ソクラテスといえば、無知の知。

 

「無知の知」という言葉は、世界史や倫理の教科書にも登場する有名な標語である。

哲学徒ならずも、「ソクラテス=無知の知」という記憶をお持ちの方は多いと思う。

 

だが驚くべきことに、その「無知の知」やそれに類する言葉を、ソクラテスはただの一度も言っていない。

「無知の知」という概念は、ソクラテスに対する誤解である

そもそも「無知の知」という言葉は、ソクラテスとは一切関係のない由来を持った言葉だ。(クザーヌスのdocta ignorantiaという言葉の翻訳が発祥。)

それがいつの間にか、ソクラテスと結び付けられて、ソクラテスの哲学の根本概念を表す言葉として定着してしまったに過ぎない。(しかも誤解。)

 

こんな主張をした論文が、2003年、「思想」という雑誌に掲載された。(「思想」は岩波書店発行の哲学論文雑誌)

 

納富信留「ソクラテスの不知――「無知の知」を退けて」という論文である。

 

無知の知を退ける納富教授と黙殺され続けるその主張

納富信留氏は、プラトンおよびソフィスト研究によって、ケンブリッジ大学で博士号(Ph.D)を取得。

その後、九州大学、慶應義塾大学での教職を経て、2016年に東大教授に就任した、名実ともに日本トップレベルのギリシア哲学研究者である。

 

納富氏は上記の論文で、ソクラテスの「無知の知」がソクラテスへの誤解であると主張した。

その主張は、単にセンセーショナルな話題を狙ったものでは全くなく、十分な根拠をもつ論説であった。

 

以来、納富氏は「無知の知」という標語を修正しようという努力を続けている。

一般向けの新書『哲学者の誕生』(ちくま新書、2005)、翻訳『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫、2012)と、ことあるごとに、無知の知の誤りを語り続けている。

 

だが、無知の知という標語が控えられるようになった形跡はほとんどない。

わたしたちは、「無知の知」が誤解であるという主張を知る機会もない。

 

世界史や倫理の教科書での表記は一向に直らない。

「やさしい哲学入門」といった類の哲学案内書はもちろん、学者が書いたギリシア哲学の解説書や、哲学史の類でさえ、いまだに「無知の知」という言葉が使われている。

 

しかも、驚くべきことに、まことに驚くべきことに、納富氏の一貫した主張・証明に対し、真っ向から応答した学者が一人もいないのだ。

ギリシア哲学研究者の多くが、納富氏への主張に対し、反対論や批判を一切唱えない。

そして相変わらず哲学史や解説書で「無知の知」という言葉を使い続けている。

 

黙殺である。完全なる無視である。武家社会と見紛うばかりのシカトっぷりである。

 

「無知の知」批判への黙殺の実例

納富氏の主張を黙殺する、実例を見てみよう。証拠は腐るほどある。

 

21世紀における哲学史シリーズ本の代表である『哲学の歴史』(中央公論新社 2008年) 全12巻。

シリーズ第1巻がソクラテスを扱っている。(執筆:山田道夫氏)

 

3.2 無知の知

……この「知恵」をソクラテスは「人間の知恵」と言い、わが国では「無知の知」と呼び慣わしている。

ふつうに見出しに使っている。

そして、納富氏の主張がさすがに耳に入っているのかこんな言及もある。

「無知の知」という言い慣わされた句が適切な表現かどうかはともかく、それは「人間の知」を「神の知」から厳格に区別して、善美な事柄について「知っている」と思い込む以前の状態につねに身を置こうとする自覚的な態度を意味している。

おわかりだろうか……。

「無知の知」という言い慣わされた句が適切な表現かどうかはともかく

 

納富氏の論文は2003年。『哲学の歴史』第1巻は2008年。5年経ってるのに、納富氏の主張は「ともかく」の一言で片付けられている。

 

事例2。というかこの『哲学の歴史』第1巻だけでいくらでも出てくるのだが。

内山勝利氏。京大のプラトン学者である。西のトップ。

デルポイの神託をきっかけとして、彼が「無知の知」を自覚するにいたった経緯は、プラトン『ソクラテスの弁明』でよく知られていよう。

……「無知の知」とは、一般的な知の水準を超え出たところで求め続けられるきわめて高度な知のことである。

 

「無知の知」とは、一般的な知の水準を超え出たところで求め続けられるきわめて高度な知

 

ソクラテスの「知」に関するこうした解釈、すなわち「無知の知」を単なる知識に対してより高次のメタ知識として解釈することが、誤りであることは、2003年に既に主張されている。

その納富氏の証明に何ら言及することなく、納富氏が誤りだと主張する解釈が、平然と書かれている。

 

きりがないので別の本にいこう。

『西洋哲学史1 「ある」の衝撃からはじまる』(講談社選書メチエ、2011年)

これも中央公論新社のシリーズほどのボリュームはないが、西洋哲学史の意欲的なシリーズである。(全4巻)

シリーズ第1巻が、ギリシャ哲学。ソクラテス・プラトンの章がある。(執筆:中畑正志氏)

「よく、美しく生きるとはどのようなことか」という最も重要なことについて、彼ら(知識人)は知らないのに知っていると思っているのに対して、ソクラテス自身は知らないとおり知らないと思っていることが判明する。

この無知の自覚を持っている点では、自分(ソクラテス)のほうが知者なのである(これが「無知の知」と呼ばれる)。

 

納富氏の論文は2003年。この解説は2011年。8年経っても、ギリシア哲学研究者たちが「無知の知」を控える様子は見られない。

 

ところで中畑氏は、さすがに「無知の知」批判について、文末の注釈として言及している。

……ソクラテスに「無知の知」を帰すことは正当である。

(ただし)ソクラテスに無知の知を帰すことに対する批判があり、重要な点なので確認する。本来はもっと詳しく論証すべきであるが、ここでは最小限の指摘にとどめる。

中畑氏はこのように記載し、無知の知の正当性の根拠をおよそ次のようにまとめている。

ちなみに最小限の分量を超えた「本来すべき詳しい論証」は何年経っても一向に出てこない。

 

(1)「わずかなぶんだけ(わたしは他者より)知がある」というソクラテスの言葉があること。これは「ソクラテス以上の知者はいない」というデルポイの神託を確証しているのだから、無知の「知」といって差し支えない。

(2)ソクラテスは自分自身を「知にかけて真実には何にも値しないということを知っている」という言葉によって説明し、それを「最も知ある者」のあり方と呼んでいる。

 

第一の点において、該当箇所ではソクラテスが自らを積極的に「知がある」と表現しているのではなく、「もしも自分が何かしらの意味で知ある者であるとすれば」という仮定命題によって表現されている。そして仮定命題は、「実際にはAでないがもしもAだとしたら」というようなニュアンスを持つのだから、ここをとって「無知の知」を正当化することはできない。

第二の点において、納富氏は「知にかけて真実には何にも値しないということを知っている」という文の「知っている」は誤訳であり、「認識している」が正しい訳語であると説明している。ソクラテス(プラトン)が「知る」という言葉を使うときは一貫したギリシア語があり、ここでのギリシア語はソクラテス的な「知る」を意味する単語ではない。

 

まとめ 黙殺は今なお継続する

「無知の知」を使い続ける学者は、基本的には納富氏の主張に対して、一切応答しようとしない。

そして納富氏が「無知の知」を誤りであると主張する根拠をそのまま、「無知の知」の正当性の根拠として使用しているという実態である。

 

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