無知の知の正しい意味を説明する唯一のブログ!15年間無視された東大哲学者の証明とは




ギリシア哲学といえば、ソクラテス。ソクラテスといえば、無知の知。

「無知の知」という言葉は、世界史や倫理の教科書にも登場する有名な標語です。

哲学徒ならずも、「ソクラテス=無知の知」という記憶をお持ちの方は多いでしょう。

 

しかし驚くべきことに、その「無知の知」やそれに類する言葉を、ソクラテスはただの一度も言ってません。

「無知の知」という概念は、ソクラテスに対する誤解です

そもそも「無知の知」という言葉は、ソクラテスとは一切関係のない由来を持った言葉です。
(クザーヌスのdocta ignorantiaという言葉の翻訳が発祥。)

それがいつの間にか、ソクラテスと結び付けられて、ソクラテスの哲学の根本概念を表す言葉として定着してしまったに過ぎません。(しかも誤解。)

こんな主張をした論文が、2003年「思想」という雑誌に掲載されました。
(「思想」は岩波書店発行の哲学論文雑誌)

納富信留「ソクラテスの不知――「無知の知」を退けて」という論文です。

2003年に投稿されたこの論文。

見事なまでに「無知の知」の批判を展開し、

「もうソクラテスの哲学を解説するときに「無知の知」という言葉を使うのをやめようよ」

という提案をしました。

しかしそれは、哲学の学界には、全く受け入れられませんでした。

学者たちの反応は、皆無でした。

納富氏の主張に反論が出るならともかく、それも一切なし。
全くの無視でした。

それは、納富氏の証明があまりにも見事であったからです。
学者たちは、ぐうの音も出なかったのです。

なのに、相も変わらず「無知の知」は使われ続けています。

その学者たちの、シカトっぷりについて、観てみたいと思います。

あまりに露骨なので、笑ってしまうほどです。

東大哲学科教授である納富信留氏のプロフィール

まずは納富信留氏についての簡単な紹介をさせてください。

納富信留氏は、プラトンおよびソフィスト研究によって、ケンブリッジ大学で博士号(Ph.D)を取得。
その後、九州大学、慶應義塾大学での教職を経て、2016年に東大教授に就任。

名実ともに日本トップレベルのギリシア哲学研究者です。

 

納富氏は上記の論文で、ソクラテスの「無知の知」がソクラテスへの誤解であると主張しました。

その主張は、単にセンセーショナルな話題を狙ったものでは全くありません。

十分な根拠をもつ論説でした。

詳しくは、こちらで紹介しています。

無知の知の使い方は全て誤解!ソクラテスの伝えた本当の意味とは?

2017.01.31

以来、納富氏は「無知の知」という標語を修正しようという努力を続けています。

  • 一般向けの新書『哲学者の誕生』(ちくま新書、2005)
  • 翻訳『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫、2012)

ことあるごとに、無知の知の誤りを語り続けています。

 

しかし、無知の知という標語が控えられるようになった形跡はほとんどありません。

わたしたちは、「無知の知」が誤解であるという主張を知る機会もありません。

世界史や倫理の教科書での表記も一向に直りません。

「やさしい哲学入門」といった類の哲学案内書はもちろんのこと。
学者が書いたギリシア哲学の解説書や、哲学史の類でさえ、いまだに「無知の知」という言葉が使われている現状です。

正直言って、googleで「無知の知」を検索すると、従来通りの説明ばかり出てきます。
なので、この誤解はいつまでたっても修正されません。

手前味噌で恐縮ですが、当サイトの拙い記事が上位表示されることを祈っています。
もしお読みいただいて、ご納得していただいた方。
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しかも、驚くべきことに、まことに驚くべきことに、
納富氏の一貫した主張・証明に対し、真っ向から応答した学者が一人もいないのです。

ギリシア哲学研究者の多くが、納富氏への主張に対し、反対論や批判を一切唱えない。

そして相変わらず哲学史や解説書で「無知の知」という言葉を使い続けている。

これは「ヤバい」ことだと思います。

完全なる無視。武家社会と見紛うばかりのシカトっぷりです。

「無知の知」批判への無視の実例を見る

納富氏の主張を無視する、実例を見てみましょう。

証拠は腐るほどあります・・・。

事例1 『哲学の歴史』第1巻 ソクラテスの章

21世紀における哲学史シリーズ本の代表である『哲学の歴史』(中央公論新社 2008年)

全12巻ある、すごい本です。

シリーズ第1巻がソクラテスを扱っています。(執筆:山田道夫氏)

 

3.2 無知の知

……この「知恵」をソクラテスは「人間の知恵」と言い、わが国では「無知の知」と呼び慣わしている。

ふつうに見出しに使っていますよ。

そして、納富氏の主張がさすがに耳に入っているのか、こんな言及もあります。

「無知の知」という言い慣わされた句が適切な表現かどうかはともかく、
それは「人間の知」を「神の知」から厳格に区別して、
善美な事柄について「知っている」と思い込む以前の状態につねに身を置こうとする自覚的な態度を意味している。

おわかりでしょうか……。

「無知の知」という言い慣わされた句が適切な表現かどうかはともかく

この部分です。

納富氏の論文は2003年です。
『哲学の歴史』第1巻は2008年。

5年経ってます。

なのに、納富氏の主張は「ともかく」の一言で片付けられている。

 

事例2 『哲学の歴史』第1巻 プラトンの章

事例2。というかこの『哲学の歴史』第1巻だけで「無知の知」はいくらでも出てきます。

内山勝利氏。京大のプラトン学者である。西のトップです。

デルポイの神託をきっかけとして、彼が「無知の知」を自覚するにいたった経緯は、プラトン『ソクラテスの弁明』でよく知られていよう。

……「無知の知」とは、一般的な知の水準を超え出たところで求め続けられるきわめて高度な知のことである。

はい。

「無知の知」とは、一般的な知の水準を超え出たところで求め続けられるきわめて高度な知

というお言葉にご注目ください。

ソクラテスの「知」に関して、こうした解釈をするのは誤りだ。

すでに納富氏は2003年の論文で指摘しています。

「一般的な知の水準を超え出た」

これは、「無知の知」を単なる知識に対して、「より高次のメタ知識」として解釈しているんです。

無知の知=メタ知識

この解釈が誤りであることは、2003年に既に主張されています。

その納富氏の証明には、何ら言及されていません。(5年経っているんだから知らないとは言えない)

そして、納富氏が誤りだと主張する解釈が、平然と書かれているわけです。
まるで2003年論文など、存在しなかったように。

 

事例3 『西洋哲学史1「ある」の衝撃からはじまる』 ソクラテス・プラトンの章

きりがないので別の本にいきましょう。

『西洋哲学史1 「ある」の衝撃からはじまる』(講談社選書メチエ、2011年)

これも中央公論新社のシリーズほどのボリュームはありません。
しかし、西洋哲学史の意欲的なシリーズです。(全4巻)

シリーズ第1巻が、ギリシャ哲学。
ソクラテス・プラトンの章があります。(執筆:中畑正志氏)

「よく、美しく生きるとはどのようなことか」という最も重要なことについて、
彼ら(知識人)は知らないのに知っていると思っているのに対して、
ソクラテス自身は知らないとおり知らないと思っていることが判明する。

この無知の自覚を持っている点では、自分(ソクラテス)のほうが知者なのである(これが「無知の知」と呼ばれる)。

納富氏の論文は2003年。
この解説は2011年。

8年経っても、ギリシア哲学研究者たちが「無知の知」を控える様子は見られません。

ところで中畑氏は、さすがに「無知の知」批判について、文末の注釈として言及しています。

事例1 事例2に比べても、説明の仕方がいくらか慎重ですよね。

さて注釈はこちら。

……ソクラテスに「無知の知」を帰すことは正当である。

(ただし)ソクラテスに無知の知を帰すことに対する批判があり、重要な点なので確認する。
本来はもっと詳しく論証すべきであるが、ここでは最小限の指摘にとどめる。

中畑氏はこのように記載しています。

そして「無知の知の正当性の根拠」を、およそ次のようにまとめています。

※ちなみに「最小限の指摘」を超えた「本来すべき詳しい論証」
 これは何年経っても一向に出てこないようです。

無知の知の正当性、2つの根拠

(1)「わずかなぶんだけ(わたしは他者より)知がある」というソクラテスの言葉があること。
これは「ソクラテス以上の知者はいない」というデルポイの神託を確証しているのだから、無知の「知」といって差し支えない。

(2)ソクラテスは自分自身を「知にかけて真実には何にも値しないということを知っている」
という言葉によって説明し、それを「最も知ある者」のあり方と呼んでいる。

この2点だそうです。

まず第1の点。
中畑氏が指摘する該当箇所ですが、ここはソクラテスが自らを積極的に「知がある者」と表現しているのではありません。

「もしも自分が何かしらの意味で知ある者であるとすれば」
という仮定命題によって表現されています。

仮定命題とは「実際にはAでないがもしもAだとしたら」というニュアンスがあります。(古代ギリシア語文法のレベル)
なので、ここをとって「無知の知」を正当化することはできないわけです。

つぎに、第2の点。
「知にかけて真実には何にも値しないということを知っている」

たしかに、そんな箇所が『弁明』にあります。
しかし、納富氏によれば、ここの「知っている」は誤訳
「認識している」が正しい訳語であると説明しています。

ソクラテス(プラトン)が「知る」という言葉を使うときは、一貫したギリシア語があり、
ここでのギリシア語はソクラテス的な「知る」を意味する単語ではない。

とのこと。

中畑氏の主張する政党制の根拠とは、2つとも
2003年の納富論文で、前もって批判されていることでした。

まとめ 無知の知の誤解は、今なお拡大し続けている

ここまで、「無知の知」の研究の物語をご紹介しました。

「無知の知」を使い続ける学者は、基本的には納富氏の主張に対して、一切応答しようとしません。

そして納富氏が「無知の知」を誤りであると主張する根拠。
これをそのまま、「無知の知」の正当性の根拠として使用している。

こんな実態なのです。

私としては「無知の知」についての納富氏の理解が、一般に広まればいいなと願っています。

というのも、正直言って、googleで「無知の知」を検索すると、従来通りの説明ばかり出てきます。
なので、この誤解はいつまでたっても修正されません。

手前味噌で恐縮ですが、当サイトの拙い記事が「無知の知」というキーワードで上位表示されることを祈っています。

もしお読みいただいて、ご納得していただいた方。
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(なんかちょっと評価がプラスされるそうです。)

(関連記事)ソクラテスといえば「無知の知」という理解は間違いだった!?