デカルト『省察』や『方法序説』は哲学科の初学年の学生や「何か哲学書を読んでみたい」という方に、まず最初に勧められる本の一つかと思います。
哲学入門にデカルトがおすすめされる最大の理由は、「読書にあたり前提知識を必要としない点」にあるかと思います。事情はプラトンと似ています。
デカルトが『方法序説』『省察』において目指したものは、「理性の正しい使用・理性を正しく導くこと」でした。
デカルトの考えでは、理性というのは時代や人種・洋の東西を問わず、すべての人間に普遍的に与えられているものです。人間はみな理性を正しく使用すれば、理性で理解できることがらの範囲では、ものごとを何でも理解できる。そういった考えを持っていました。
たとえば「2+3=5」「三角形の内角の和は180度」と言ったことがらは不変の真理であり、全人類が理解可能なものであるという考えです。
そしてデカルトが『方法序説』や『省察』で論じていることがらも、理性を正しく導きさえすれば、誰にでも理解できるという考えのもとに書かれました。
ちなみに、こういったデカルトの考えを現代の立場や東洋思想的な立場から見て、偏った西洋合理主義だとか、理性中心主義などと批判することは簡単です。
しかし、批判するのはデカルトの『省察』を十分に読んでからでも遅くはないでしょう。
え? デカルト『省察』を読んでいる時間なんかないって? なんてことだ、それならば、ますますこの記事を読んで、デカルト『省察』についての理解を少しでも深めなければなりません。
『省察』を読んだことのない方でも『省察』のポイントが理解できるように、できるだけやさしく要点を書いていきたいと思います。
ちなみに『省察』の第一省察のみを扱う予定です。
『省察』の内容は、第一省察~第六省察まであり、第一省察は、いわゆる「方法的懐疑」にあたる部分です。
「方法的懐疑」とは「真理を発見するために、疑わしきものは全て偽と見なす」という思考法です。
有名な「われ思う故にわれあり」(コギト・エルゴ・スム・Ego sum, ego existo)という真理の発見は、第二省察で出てきます。
第一省察では、真理を発見する前にすべてを疑い尽くして、何一つ確かなものが見つけられず、絶望のただ中にいるデカルトの姿を確認して終わります。
この方法的懐疑の威力を理解するだけでも、哲学が秘めるパワーや破壊力というものを実感できるかと思います。
では読んでいきましょう。使用する『省察』の翻訳はこちら。ちくま学芸文庫の山田弘明訳です。
新しい翻訳であり、また非常に詳細な注釈がついているので、資料集的な役割も果たせる充実の一冊です。(岩波文庫は古すぎるのでやめましょう。)
序文でいきなり読者に喧嘩を売るデカルト
早速、全てを疑いにかかる「第一省察」に入りたいところですが、どうしても見逃すことのできない一節が、序文にあります。
デカルトはほかの作品でも、わりと序文で面白いことや、ためになることを述べていますが(『哲学原理』等)、『省察』での序文はキレッキレです。
大衆の喝采や多くの読者を得ることは、なんら私の期待するところではない。
それどころか、私がこれを読むように勧告している相手は、ただ私とともに真剣に省察し、精神を感覚から、そして同時にすべての先入見から引き離すことができ、またそう欲する人々のみである。
そして、そのような人々はきわめてわずかしか見出されないことを私は十分に心得ている。
デカルトさんは要するに「頭の悪い人に読んでもらおうとは思っていないし、人気やファンもいらない」と言っています。
その点、確かに『省察』はラテン語で書かれているので、一般庶民には読めません。(『方法序説』はフランス語。)
つまり『省察』とは、そもそもラテン語が読めない大衆の目には入らないところで執筆され、出版されたのです。
したがって、この箇所でデカルトが意図したことは「大衆にけんかを売ったのか」それとも「逆に『省察』を読もうとする読者に優越感を与えたのか」どちらかでしょう。
冒頭で述べたように、デカルトの『省察』は今や現代では哲学の初歩・入門に最適な1冊として勧められています。
しかし当のデカルトは、「この本を読むべき人間は極めてわずかしかいない」といったことを書いているのです。
おもしろい矛盾だと思いますし、この「哲学入門としての『省察』」と「デカルトの言葉」の矛盾は、意識すべきかと思います。
それはある意味では、『省察』とは気楽な気持ちで読むような本ではない、ということでしょう。それは以下の一節に現れています。
「私とともに省察してほしい」と言ったデカルト
先ほどと同じ箇所をもう一度引用してみます。
私がこれを読むように勧告している相手は、ただ私とともに真剣に省察し、精神を感覚から、そして同時にすべての先入見から引き離すことができ、またそう欲する人々のみである。
それが「私とともに真剣に省察し」という一節です。
デカルトが読者に求めることは、議論のあらすじや、論理の流れ・妥当性を理解することではありません。
デカルトが省察した道筋を、読者もまた自らたどって欲しいと求めているのです。
つまり、デカルトがすべてを疑ったように、読者も自らすべてを疑い、デカルトが頭を悩ませたところで、読者も同様に頭を悩ませて欲しい。
このように、デカルトは自らの省察を読者にも実践して欲しいのです。
この点で、デカルトの『省察』は近代の合理主義哲学の金字塔であると同時に、近代に現れた最大の「実践哲学」であるとも言えるのです。
この一節、いわば「私とともに省察してほしい」という一節の重要性は、デカルトが序文の後半で書いていることとも一致しています。
デカルトは次のように述べています。
まずこの『省察』において、私がそれによって確実で明証的な真理認識にいたったと思われる思考そのものを展開し、私を説得したのと同じ論拠によって他の人をもまた説得することができるかどうかを試してみたい。
「私を説得したのと同じ論拠によって他の人をもまた説得する」
この部分ですね。明らかにデカルトは、自らの省察の軌跡を、読者もまた同じようにたどってほしいと表明していることが見てとれます。
まとめ:デカルト『省察』を読むのに必要なこと
このように、デカルト『省察』の読書に必要なのは、デカルトと同じ省察をするという姿勢です。
それがデカルトの望んだことであり、またそのような読者は極めてわずかしか見出されないとデカルト自身、自覚しているところでした。
ただ論理を追うだけではなく、デカルトの思考プロセスを追体験すること。
デカルト『省察』の読解にあたっては、まずこのような読書態度が必要であると思われます。