アリストテレス『ニコマコス倫理学』あっさり要約&解説

      2017/03/01

アリストテレス『ニコマコス倫理学』をあっさり紹介します。

巻物で全10巻。分量は文庫本で2冊。

「ニコマコス」の由来や意味→ニコマコスという名前は、この作品の編者がニコマコスという名前だったから。アリストテレスの息子。

 

『ニコマコス倫理学』の位置づけ

アリストテレスは一般に学問や技術を「理論」「実践」「制作」に大別しました。『ニコマコス倫理学』は「実践」にあたります。

ここでいう「実践」の意味とは、人間がよく生きるための学問という意味です。

ちなみにアリストテレスに言わせれば人間とは「理性的動物」であり「ポリス的な動物」であると定義されます。

すなわち、ものを話し、ものを考え、ポリス社会の一員として生活する動物。それを人間と定義しました。

したがって「実践」とは「よく生きるための学」であると同時に「ポリスに関する学」でもあると言えます。

この「ポリスに関する学」は広大な学問分野を含んでいます。それらは「政治学」「経済学」「倫理学」などに類別され、『ニコマコス倫理学』もある意味では、「ポリスに関する学」のうちに含まれると言えます。

一言でまとめれば、「ポリスの中でよく生きるための学」が倫理学であると言えるでしょう。

 

『ニコマコス倫理学』の序論

第1巻。冒頭は次のように始まります。

「技術も学問も行為も意図も、すべてなんらかの善を志向している」

そしてこの講義が人間にとっての最高善の認識と獲得を目指す国家の学問であると述べます。

つまり、単に善や徳といったものが何であるか知る「理論」の学問にとどまらず、実際に各人がよく行為し、よく生きるための「実践」の学問であると宣言します。

ここから、倫理学は実践の学問であるため、理論の学問のような厳密性を求めることは不可能であると注意を促しています。

以上のように、『ニコマコス倫理学』の目的と方法について述べた上で、本論に入っていきます。

 

ちなみにアリストテレスはいつも序論・前書きでこのように書物の目的や方法を述べてから本論に入っていきます。だから冒頭に書いてあることは、書物全体の見通しをつけていく上で重要です。あまり読み飛ばすべきではないかと思います。

 

本論 善と幸福の見解と定義

アリストテレスはまず、善についての一般的な見解を列挙します。(これもアリストテレスの著作全体に共通する叙述の方法)

そして「善とは幸福である」という点ではおおむね一致しますが、では具体的に何をもって幸福な生活であるか、という点については一致しないと指摘します。

どう一致しないかといいますと、幸福な生の獲得のために、何を求めるかという点です。

快楽を求める・名誉を求める・富を求める・テオリア(観照・理論)を求める、という4つの生活に区別されると述べます。

これらはいずれもある点において、幸福な生活という概念をとらえてはいます。そしてアリストテレスによれば、最後の「テオリアを求める生」いわゆる「観照的生活」が最も幸福な生活であると思われると、本論の最初にあたる部分で仮説を述べています。

なぜ観照的生活なるものが最も幸福な生活なのか。これはアリストテレスが善や幸福の条件として、自己目的性と自己充足性を挙げるからです。

たとえば快楽や名誉には他者が必要ですし、富は本来手段であって目的ではありません。その点、観照とは、自己目的性と自己充足性が備わっているように思われる、とアリストテレスは論じます。

 

※ちなみに富の増殖が近代に至って手段から目的に取って代わっていった、という説のもとに歴史を語っているのがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 』(岩波文庫)です。

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なお、快楽は自己充足性も含まれるようではありますが、アリストテレスはさらに「人間の幸福」というテーマにしぼってみます。というのも快楽は奴隷や野獣も追求するものであり、「理性的人間」「ポリス的人間」に固有の幸福というものをアリストテレスは追究しているからです。ポリス的人間は、徳を有していなければならないと規定し、ポリスでの人間の活動および優れた人間に備わる卓越性(=徳)を検討したうえで、暫定の結論を出します。

その暫定定義によれば、幸福とは「人間の機能に関わり、人間としての徳に即しての、現実活動」であるとされます。

もちろん全く意味が分からないので、それを全10巻で順次検討していくことになります。

 

第1巻から第5巻まで

徳について、アリストテレスは第1巻の最後で、人間の機能に理性的な部分と非理性的な部分とが存在することを指摘し、その区別に応じて「知性的な徳」と「性格的な(倫理的な)徳」との2つに類別します。

 

そして第2巻から第5巻までは、「性格的な徳」についての概論が展開されます。

この性格的な徳の概論とはおよそ次の通りです。

・自然によってではなく習慣(エートス)によって性格(エートス)となること。

・過度と不足とを避け中間(中庸)を選んで行為すること。

・行為と選択との関係

・徳は快苦の感情と深い関係をもっているが徳そのものは感情でも能力でもなく心の状態の一種であること。

・徳の心の状態とは、中間(中庸)を選択する状態であること。

 

概論が述べられたあと、性格的な徳が列挙されていき、それぞれ詳細に検討されます。列挙された徳とはおよそ以下のものです。

勇気・節制・お金に関する徳・名誉に関する徳・交際に関する徳・徳に似た羞恥・正義

第5巻までの議論はおよそ以上の通りです。

 

第6巻から第9巻まで

第6巻では知性的な徳の概論と解説が述べられます。(推理・技術・実践・直観・哲学)

第7巻では抑制と無抑制、徳と悪徳との関係における快楽が検討されます。ちなみに抑制と無抑制の議論は、「アクラシア問題」とも言われ、現代でも哲学の研究テーマの一つとして生き残っています。

関連記事:「アクラシア問題」について(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

第8巻から第9巻にかけて、自己に他者に対する愛について議論されます。他者とは親類、配偶者、友人、ご近所(同僚含む)を指し、それぞれに対する愛の違い、感情や働きかけの違いが論じられています。

 

結論 幸福な生活とは、学問研究の生活

第10巻は結論部分にあたります。

まず快楽を、善とする説と悪とする説とが比較検討され、人間的な幸福には快楽が伴うものだが、真に人間的な快楽がナンであるかは、何が真に人間的な活動であるかによって決定されると述べます。

そして快楽そのものは幸福ではなく、幸福に必然的に伴う感情に過ぎないと述べます。いっぽう幸福とは徳に即しての活動であり、そして究極的な幸福とは、自己目的性と自己充足性を満たした活動であると主張し、それは何らの観念や可能性を伴わない、現実的な活動であるとされます。つまり活動による期待や希望を見込んでの幸福感(働けば金が儲かる等)ではなく、活動そのもの(働くことそれ自体等)が幸福でなければならないと述べます。

では活動そのものが幸福であるとは、どのような活動なのか。それは人間には不可能であるが、最もそれに近い活動としては理論の研究に専念する学者の生活であると言います。そして完全にその活動を実践できるのは神のみであり、その働きとは「不動の動者」であると述べます。

というのは、神の生活とは永遠にただ神自らを直観し思考する、純粋な自己観照の生活である、と述べています。

したがって、人間的に追求されうる最大限の幸福な生活とは、学問研究の生活であると、アリストテレスは結論付けます。

そしてこの生活のモデルより導き出されるのは、真の人間的な活動とは学問研究であるから、それは現実のポリスを超越した活動と言えます。そこでは政治学は倫理学に従属するものとなります。

こうして、来るべきポリス崩壊後のヘレニズム世界におけるコスモポリタニズムの論理が後の世紀で展開されることになりました。

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