ペトラルカの生涯を年表でたどる|22歳で人妻に一目惚れして人生が一変

ペトラルカ桂冠詩人




ルネサンス詩人、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)の年表を作成しました。

ペトラルカはイタリア俗語詩人としてのみならず、ラテン語詩、リウィウスの文献校訂、哲学・宗教的著作など多くの著作活動に携わりました。

また、人文学者として政治的な活動にも携わりました。(当時の人文学者は外交等に重用されていました。まさに教養が力となった時代でした。)

途中途中で、重要な出来事や作品に関しては、関連記事をご紹介しています。

ご覧になって頂ければ、ペトラルカの生涯や詩作品や思想について、いっそう面白く感じて頂けると思います。

ペトラルカ年表

1302

 父ペトラッコ、財産没収の上フィレンツェ追放

1304

 7月20日、ペトラルカ、アレッツォにて生まれる

1305

 父の郷里インチーザにて過ごす

1309

 教皇庁遷移。いわゆる「アヴィニョン捕囚」(-77)

1311(12?)

 ピサへ移る、ダンテを市中で見かける

1312(13?)

 アヴィニョンへ旅立つ。住宅不足で近郊カルパントラに居住。コンヴェネーヴォレ・ダ・プラートのもとでラテン文法や修辞学などの初等教育を受けながらの少年時代

1316

 父の命により南仏モンペリエ大学に法学留学、こっそりローマ文学を勉強。この時期、父の焚書事件。キケロの修辞学とウェルギリウス一冊を残す。

1318

 母死去、死を悼み詩作を残す。

1318or19

 『韻文書簡集』66篇を編纂

1320

 法学研究最高峰のボローニャ大学へ弟と留学、やはりローマ古典の勉強に熱を入れる。学生たちの騒動で勉学は2度ほど中断される。詩文化の中心であったことで影響されて、自らもイタリア語による詩作を試みる。ジアコモ・コロンナと親交。

1326

 父死去。法学を放棄し、アヴィニョン帰郷、上流社会に出入り。

1327

 4月6日キリスト受難を記念する聖金曜日、聖クララ教会にてラウラを見る。

ペトラルカとラウラとの運命的な出会いについて、こちらの記事で紹介しました。

1330

 父の財産が底を尽き、生活の経済的基盤を固めるため下級聖品を受け聖職者となる。ジアコモ・コロンナ司教の任務に随行してピレネー山麓ロンベスでひと夏を過ごし、帰還後の秋に兄ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿の庇護を受け仕える(-47)

1333

 北仏、フランドルおよびライン地方をめぐる長期旅行に出かけ、ベルギーのリエージュで、キケロの演説文2編(アルキアース弁護)発見人文主義の先導者として名が広まりはじめる。帰国後(パリにて?)ディオニジ・ダ・ボルゴ・サン・セポルクロからアウグスティヌス『告白』を入手

1335

 教皇宛に書簡を送り、教皇庁をローマ戻すよう訴える

1336

 ヴァントゥー山登攀

1336-37(37年説が多い)

 ローマ訪問、偉大さに驚嘆

1337

 夏にアヴィニョンに戻ると息子ジョヴァンニが生まれていた。まもなくヴォークリューズに移住。ソネットとカンツォーネの改訂と制作

1338

 『名士列伝』(De viris illustribus、未完)と『アフリカ』(未完)に着手。桂冠詩人の称号を得ようと運動

1339

 『アフリカ』の第一稿が回覧される。

1340

 9月、ローマ元老院とパリ大学から戴冠の招請。ナポリ王ロベルトに推薦を依頼

1341

 ナポリに赴き審査を終えたのち、4月8日ローマのカンピドリオの丘の元老院で戴冠。以降、諸君主の招きを受け、客人としてイタリア北部の諸都市での滞在が多くなる。パルマの君主アッツォ・ダ・コッレッジョの客となり、パルマおよび郊外のセルヴァピアナに1年ほど逗留、『アフリカ』に専念。

1342

 ヴォークリューズに帰る

1342-43

 セポルクロ、ロベルト王死去。『カンツォニエーレ』詩集としてまとめられる。『秘密』初稿。『悔悛詩篇』(Psalmi poenitentiales)7編執筆、『記憶されるべき事柄の書』(Rerum memorandarum libri、未完)着手、『名士列伝』23人の伝記が書きあがる。「道徳主義」(?)着手。

1343

 4月、弟ゲラルドがカルトゥジオ会の修道院に入る。娘フランチェスカ誕生。秋、コロンナ枢機卿の使節としてナポリへ派遣。

1344

 ナポリの帰路にてパルマに滞在。権力争いでミラノとマントヴァの軍隊がパルマ包囲。このときカンツォーネ「わがイタリアよ」Italia mia執筆。

1345

 2月、ヴェローナに避難、そこの司教座聖の書庫(教会の図書館)でキケロのアッティクス宛書簡16巻(通)(クィントゥス宛書簡、ブルートゥス宛書簡も?)を発見、これに示唆を受け自らの書簡集の制作を思い立つ

1346

 ヴォークリューズに滞在(45-47?)。『孤独生活論』De vita solitaria初稿。『牧歌』(46-48)Bucolicum carmen構想、大半を作る。

1347

 弟を訪問、『宗教的無為について』De otio religioso初稿。バビロン・ソネット3篇。5月、コーラ・ディ・リエンツォが貴族政治を倒し共和政復活を図った革命に成功、これを熱烈に支持。コロンナ家と断絶。11月、ローマへ旅立ったが革命失敗のため、進路を北イタリアへ転じ、パルマに滞在後、諸都市を巡る(-51)。(ペストのためローマを離れた???)

1348

 黒死病大流行。パルマにてラウラの訃報に接する。作風が一変。『マドンナ・ラウラの死に』In Morte di Madonna Laura。コロンナ枢機卿死去。8月、パルマ大聖堂の助祭長に任命

1349

 招かれてパドヴァ滞在。

1350

 カトリック聖年にあたりローマ巡礼。途中(秋)フィレンツェとアレッツォに初帰国。フィレンツェでボッカッチョに迎えられる。『親近書簡集』の編集に着手

1351

 1月、パルマに着く。4月ボッカッチョ、パドヴァに訪れ、フィレンツェ市から大学教授職と父の没収財産の返還の申し出を伝えるが、曖昧な返事のまま教皇クレメンス6世の呼び出しに応じて6月(5月?)、息子とヴォークリューズに戻る。秋、アヴィニョンでの教皇書記官の地位と司教の地位を断る。『無名書簡』1通執筆。

1351-53

 『偉人伝』完成

1352

 春、プロヴァンスを去ることを決め、ヴォークリューズに戻る。『凱旋』(未完)着手「愛の勝利」と「純潔の勝利」

1353

 春(新春?)、弟を訪ねた後、反感を抱く人物が新教皇になったのを機にイタリア定住を決意。専制君主と知られるヴィスコンティ家の招きを受けミラノ移住(-61)。外交使節等の大任をしばしば引き受ける。ボッカッチョをはじめ友人たちから批判を受ける。ジェノヴァとの和平交渉のためヴェネツィアへ。

1355-61

 『わが秘密』と『宗教的無為』完成、『牧歌』ほぼ決定稿。
『カンツォニエーレ』と書簡集の編纂。
『親近書簡集』Familiarum rerum libri(未完)と『韻文書簡集』Epistolae metricaeの大半を作成。『順逆両境の対処法について』De remediis utriusque fortunae着手。
『凱旋』制作再開「死の勝利」を加える?


『わが秘密』に関しては、こちらの記事でご紹介しました。

1355

 『医師論駁』(52-55)

1356

 プラハで神聖ローマ皇帝カール4世に厚遇。

1358

 修道士レオンツィオ・ピラートと知り合う。ホメロスのラテン語訳を彼とボッカッチョとともに企画推進

1360

 『無名書簡』Sine nomine完成。アッツォ・ダ・コレッジョにカンツォニエーレを送る(?)(キジ家写本)

1361

 パリにフランス国王ジャン2世を訪ね、イギリスでの幽囚が解けた祝辞を送る。
ペストにより息子ジョヴァンニ死去。ペストを逃れてパドヴァへ移る。(『親交書簡』完成?)。『老年書簡集』着手?。その後も毎年夏にはパヴィアに滞在

1362

 秋、ヴェネツィアに避難。蔵書と引き換えに家を得る(-68)。娘夫婦と孫娘と落ち合う。

1364

 『牧歌』完成

1366

 ホメロスラテン語訳をボッカッチョが送ってくる。『禍福双方の救済について』、『親交書簡』完成

1367

 『自己自身と多くの者の無知について』(67-71)De sui ipsius et multorum ignorantia執筆

1368

 パドヴァに戻る。

1370

 パドヴァ近郊アルクァへ移住。娘夫婦、孫娘と暮らす。ローマ旅行を企てるがフェララにて病で引き返す。『老年書簡集』Rerum senilium libri(未完)『凱旋』改訂「時の勝利」と「永遠の勝利」を加える。

1374

 『カンツォニエーレ』決定稿とおぼしき形になる。7月18-19日の真夜中、自宅にて死去。机上で死去したと言われる。

 

 

 

おわりに ペトラルカ研究について

年表を見れば、ペトラルカが非常に多作な人物であったことがうかがえるかと思います。

また、重要なこととして、ペトラルカには一度書いた作品を、後から何度も何度も手直しする習性がありました。

だから現存している作品を見ても、これが執筆当初の作品なのか、それとも後年に自身による修正が入った作品なのか、簡単に判別することができません。

そういう事情もあり、これまでのペトラルカ研究の大半は、その判別に労力を費やしてきています。要するに文献学的作業です。

ちなみにペトラルカの校訂版作品集も、刊行開始以来、100年以上経ってなお完成していません。

 

日本のペトラルカ研究では、そういった文献学的作業に携わることは不可能に近いでしょう。日本の研究者は、そうした本国での文献学的成果のおこぼれに与かるしかないという・・・。(こうした問題は、ペトラルカ研究に限らず、外国文学研究者にとって共通のジレンマかもしれません。)

 

また、日本でのペトラルカ研究は、俗語詩『カンツォニエーレ』をのぞけばほとんど研究されておらず、哲学などのラテン語作品にいたっては、これまで日本で数人しか研究者がいなかったという状況です。(佐藤三夫、渡辺友市、近藤恒一の3氏程度。ごく最近、若い人がようやく1人動き始めたかもしれません。)

つまり、イタリア文学研究者としてペトラルカの俗語詩を研究する日本人学者は比較的存在しますが、ルネサンス期の哲学研究者としてペトラルカを研究する人間はほぼいません。これがいかにもったいないかは、年表を見てくだされば多少は感じていただけるかと思います。

また、ルネサンス期の哲学は全体としてまだ全然手付かずの分野です。今現役でやっている人は、根占献一氏および伊藤博明氏くらいでしょうか。ほかにもいるかもしれませんが、首都圏ではそんなものかと思われます。(ちなみに根占氏はよくツイッターを利用されています。)

日本の哲学界は明治以来、英独仏ばっかりやっていたので、イタリア語圏はみんな無視しているのです。有為な哲学研究志望者が、イタリア哲学の分野にたくさん挑戦してくださることを祈っています。(イタリア語とラテン語ができれば大体OKです。)