『ソクラテスの弁明』と裁判の背景:プラトンを読むために知っておくべきこと




 

プラトンは非常に読みやすく、哲学書を読んでみたいと思ったときにおすすめできる哲学者です。

哲学書には珍しく、読むのに専門用語や事前知識がほとんどいりません。

そして作品の形式が「対話篇:たいわへん」といいまして、

「劇仕立て」(映画やドラマの脚本)になっています。

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プラトンで最も有名な作品は『ソクラテスの弁明』

プラトンの作品で最も有名なのは『ソクラテスの弁明』ではないでしょうか。

これはソクラテスが「ポリスの敬う神々を敬わないで新奇な神々を崇拝し、かつ若者を堕落させた」というかどで、裁判所に訴えられた話です。

事前知識なしでも十分に読めますが、これは当時のアテナイの雰囲気や歴史的な背景・事情を知っておくと、より深く楽しく読めます

ソクラテスが当時のアテナイ市民からして、一体どういう人物として見られていたのでしょうか?

 

1.ソクラテス裁判に関連する対話篇

ソクラテス裁判に関連する対話篇は、時系列になっています。

エピソード1、エピソード2みたいなものです。

 

『エウテュプロン』(訴えられて役所へ赴くソクラテス)

→『ソクラテスの弁明』(ソクラテス告発裁判の現場)

→『クリトン』(有罪になったソクラテスに、クリトンが獄中での脱獄を提案する)

→『パイドン』(ソクラテス刑死の日、牢獄にて)

 

2.ソクラテス裁判の背景

ソクラテスはアテナイの有名人であり、「知者」として知られていました。
当時の知者とは詩人、芸術家、職業教師ソフィスト、政治家といった人々です。

ソクラテスが他の知者たちと違ったのは、知者であることをかたくなに否定し「自分は何も知らない」と言っていたこと。

にもかかわらず、ほかの知者を相手に対話(議論)を求め、論駁(ろんばく=言い負かす)して、彼らの無知を暴いてしまっていました。

こうしたソクラテスの姿は、アテナイ社会で人々の恐れと反感をひきおこし、他方で若者たちの畏敬と喝采を受けました。

「ソクラテスすげー! 知識人を言い負かすのはスカッとするなあ! おれも真似したい!」

当時の若者はこんな感じだったかと思います。
今で言う「はい論破wwwww」にそっくりです。

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ソクラテスの裁判と死は、基本的には政治的事件でした。
アテナイには2つの政党がありました。

民主派と寡頭派。

民主派は、アテナイ伝統の民主制。
対する寡頭派(かとうは)。(アテナイと並ぶ有力都市スパルタをモデルとするエリート支配体制

裁判の数年前の前404年。
ペロポネソス戦争(前431-404)敗戦をきっかけに、寡頭派が政権を奪取しました。

「三十人政権」と呼ばれるこの政府の中心人物は、プラトンの母親の従兄クリティアスという人物でした。

プラトンやクリティアスは、ギリシャ七賢人のひとりソロンを祖先に持つ名門中の名門の生まれです。

新政府のリーダーとなったクリティアスは「ポリスを不正の輩から浄化し、残りを徳と正義へと向ける」と宣言しました。

当初は歓声をもって迎えられるのですが、やがて反対者を不当に処刑・財産没収する「恐怖政治」へと変わっていきました。
その結果、半年足らずで崩壊しました。
フランス革命のロベス=ピエールが想起されるかもしれません。

 

このクリティアスの教育者と目されていたのがソクラテスなのです。

しかも告発の首謀者は、民主派の政治家アニュトス(ほかに若い詩人メレトス、弁論家リュコン)。
アニュトスは、三十人政権に深い恨みがある人物でした。

もちろん、市民の中にも三十人政権の被害者はたくさんいます。

それにもかかわらず、ソクラテスは何の責任も問われずに、相変わらず問答を続けていたのです。

 

「数百人もの市民を殺害した政治的な独裁者の教師と目される人物」が、のうのうと街中で生きている、というふうに想像してください。

 

こうした事情は、当時のアテナイ人なら誰でも知ることでした。

だからソクラテスに対する「不敬神と若者を堕落させた」かどでの告発が、「クリティアスの政治責任を問うもの」でもあったのです。

これは、街中の市民にも、当日の500人の裁判官たちにも、暗黙の了解として知られていました。

 

以上のように、身内クリティアスの失敗と、師ソクラテスの死は、若きプラトン(20代後半)に深い衝撃を与えた事件となりました。

 

3.ソクラテスの言行――なぜ死刑になったか

ソクラテスは裁判で有罪と判決され、その直後の量刑を決める判決で死刑となりました。

なぜソクラテスは死刑になったのでしょう?

ソクラテスの言っていたことを一言で表せば「正義は不正にまさる」とこれだけです。
このことを言論の上でも生き方の上でも示していました。

『ソクラテスの弁明』によれば、上記のような背景がある裁判で、ソクラテスは言います。

「人々の嫉妬と中傷が優れた人に罪を負わせてきた。それがわたしで終わりになるようなことは決してないだろう」

「アテナイにおいて神に対する私の奉仕よりも大きな善は、いまだ一つもない」

挑発的ですね。

さらに有罪決定の後の量刑判決においては、

「刑罰が罪人にふさわしい量刑を与えるものだとすれば、私にふさわしいのは迎賓館(国の英雄が迎えられる場所)での食事である。これを要求する」

などと主張しました。

 

ソクラテスはなぜ、こんな挑発的なことをあえて言ったのでしょうか?

 

それは、先の「正義は不正にまさる」という主張から帰結します。

ソクラテスは言います。

「わたしの確信では、何人にも不正を加えることはしていないのだから、自分自身に刑罰を申し出て、自分自身に不正を加えようとすることは、私の思いも及ばぬことである」

そしてソクラテスは死刑判決を受け、脱獄ができたにもかかわらずそれを承伏しませんでした。(『クリトン』)

そして魂の不死を証明した後(『パイドン』)、毒杯を仰ぎ従容として死んでいくのです。

 

これがソクラテスが示した生き方であり、プラトンは彼こそが哲学者である(ソフィストではなく!)と考えました。

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