プラトン『国家』の魂三部分説が出てくるまでの文脈とは?




プラトン『国家』第四巻にいわゆる「魂三部分説」が出てきます。この言説が登場する文脈を理解したいと思います。

そもそもこのいわゆる「魂三部分説」は、プラトンの解説書では必ずと言っていいほど出てきます。”プラトンによる正義の定義~”などという文脈で必ず利用されます。

 

しかし現代の私たちがいきなり「魂はポリスと同様に3つの部分に分かれていて~~」などと言われても、全くピンときません。

魂というあるかどうかもわからないもの。あったとしても非物質的であろうものが(プラトンにとっても魂は非物質です)、どうして3つの部分に分かれるのか、そういうことを丁寧に説明してくれている解説書はありません。

 

ということで、わたしのほうで考えておきました(笑)

いわゆる「魂三部分説」そのものについての議論はもう信じられないほど膨大な研究があるので、わたしのほうではいわゆる「魂三部分説」が出てくる文脈を確認したいと思いました。

 

 

全体のテーマ

まずは『国家』における全体的なテーマを確認しましょう。これについては別記事でも詳しく書いたので、簡潔にまとめます。

・正義は不正にまさるものか? 幸福な人生のためにはどちらが得なのか?

・正義とは何か? 正義と不正それ自体は個人の魂のうちでどんな働きをするのか?

・これらはグラウコンとアデイマントスの問題提起によって生まれたテーマ。『国家』第2巻以降の、国家建設の話はすべて(個人の魂における)正義の弁護を目的とした議論。

 

正義と不正はどちらが得か? 正義と不正は人間の内部でどんな働きをするのか? こういう文脈で、『国家』という作品は、全10巻にも及ぶ長大な議論になっています。

続けて、グラウコンとアデイマントスの問題提起を確認しましょう。これも別記事で詳しく書きましたので、この場ではちょっと週刊誌的な煽りのように書いてみます。

不正は正義にまさる、得と思われる理由――グラウコンとアデイマントスの挑戦

・正義は弱者の保護などの消極的な決めごと・妥協で、しぶしぶ守られている社会契約論なのだ。

・そもそも自然状態においてはより力のあるものが多くを得るのが当然で正しいことだと、現実の支配者も民衆も考えている。(ノモスとピュシスの対立、民衆と僭主は同じ思想、ギュゲスの指輪)

・正義が得なのは評判や結果のゆえであって、正義それ自体を讃えた言論は今までない。(今まで社会の中で正義だと言われ、教えられていたことは全部作り事の嘘っぱちだったと言わんばかりの超過激発言。)

 

今まで何度か書きましたが、あらためて見ても、すごい問題提起ですね。実際、現代の社会契約・正義論も、はっきり言ってこうした議論の前提で成り立っています。

注意しておくべき点があります。

これはプラトンがあくまで問題提起のためにぶちあげたソフィスト的な議論であり、プラトンはこれに対して『国家』の残りの部分で反論していきます。(文庫で数百頁の分量です。)

にもかかわらず、にもかかわらずですよ、こちらのソフィスト的な議論のほうが、現代の社会契約論・正義論の基礎になっているのです。

プラトンの正義論なんて見向きもされていません。(白熱教室のサンデルも完全に無視しています。)

 

だからプラトンはこの点だけをとれば、ソフィストに完全に敗北しています。ソフィストはプラトンによって悪者にされており、私たちもそんなイメージでソフィストをとらえるのですが(英和辞典の語義を見ればよくわかります)、良心的なプラトン学者のうちには、実際の歴史において勝利しているのは実はソフィストなのではないか、そんな疑義もさしはさまれています。

 

さて、『国家』とはソフィストの正義論を打ち破るための作品だと確認しました。

これを読んでくださっている方々は、こうは思いませんか?

 

「なんで国家つくってんの?w」

 

私はそう思いました。ということで箇条書きでまとめてみます。

なぜ国家を建設しているのか

・完全な意味で正義の人と不正の人、両方のモデルを描き、彼らの人生や運命を考察するため

・個人のうちでは正義がどのように働いているかを見て取るのは困難

・正義には、個人の正義もあれば国家の正義もある

・国家=大きな文字 個人=小さな文字。まず大きな文字を見ることによって、小さな文字も見えやすくなるだろう

・現実の社会では、正義がどのように働いているかを見て取るのは困難

・言論で作られた美しい国家なら、正義が最もよく働いているのを見て取れるはずだ

・もしグラウコンとアデイマントスの挑戦に答え、正義がそれ自体のゆえにも結果のゆえにも不正にまさる、そう同意せざるを得なくなれば、私たちはいかなる場合でも正義の人として生きなければ、それは間違った生を生きていることになる

・第4巻では国家建設が終了し、国制を個人の魂にあてはめ、魂も3つの部分からなることを明らかにする。そこで「知恵・勇気・節制・正義」といった四種類の徳とそれぞれの働きが描き出され、正義と不正の働きに一応の結論が出る。

 

言論によるモデル国家を建設する議論は、第2巻の中盤から始まります。第3巻を経て、第4巻で一応の決着がつき、言論による国家建設が完了します。

ソクラテスたちによって創りあげられた国家は、三つの階層によって分かれています。支配者層・守護者層・生産者層です。それぞれの階層で働く徳目として、知恵・勇気・節制が挙げられます。

支配者は知恵によって、国家全体を秩序づけ支配する。

守護者は勇気によって、武力から自国を守護する。

生産者は節制によって、自ら及び支配者守護者の生活物資を生産する。

そして、以下のように、それぞれを魂に当てはめます。

 

支配者=知恵=魂の一部

守護者=勇気=魂の一部

生産者=節制=魂の一部

 

どうしていきなり国家を魂に当てはめたかと言うと、上で述べたように、魂の類比(アナロジー)として国家を創っていたからです。

たとえば、私たちがいきなり「魂の構造を論じなさい」と言われても、何の手がかりもありませんよね。

魂とは何かを論じるための暫定的な取っ掛かりとして、国家に喩えてみよう、というふうな同意を、ソクラテスたちは交わしていたのです。

だから、いきなり国家の階層を魂に当てはめても驚く必要はありません。それは国家建設をする前の取り決めだったのです。

 

以上が国家と魂の類比(アナロジー)の話であり、いわゆる「魂三部分説」が登場する文脈でした。