「ん、べつに?」
「なにそれ、そんなの読んでるの?」
「え? なんかまずい?」
「読む本が幼いのよ。もっとちゃんとした本を読みなさいよ。」
「ちゃんとした本ってたとえばなに?」
「純文学とか、海外文学よ」
「ああ、そうなの」
こんな経験、ありませんか?
人が読んでいる本に、けちをつけてくる方って、いますよね。
自分が優位に立ちたいという感情を、マウンティングなんて言ったりします。
こういう人、どうでもいいんですが、なんとなく「ぎゃふんと言わせてやりたい」気もしますよね。
そこで、3つの方法をご紹介します。
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方法その1 超難解な本を読んで逆マウンティング
相手よりも、明らかに難しい本を読むのです。
できれば、相手の読んでいる本を調査したうえで、同じテーマで数段階専門性が高い本を手に入れましょう。
こけおどしなので、あなたが理解する必要もありません。
「あんた、そんなの読んでわかるの?」
なんて聞かれたら、もうこちらの勝ちです。
相手は単なる負け惜しみです。
「難しいけど、楽しいよ」
と適当にいなしてあげましょう。
ぎゃふんです。
方法その2 原語や和装本を入手して逆マウンティング
「純文学や海外文学を読まなきゃ、本当の読書じゃない」
という謎の主張があります。
それなら、「翻訳文学」も本当の読書じゃないわけです。(原語で読まなきゃ!)
活字以前に発行された本なら、活字も本当の読書じゃないわけです。(和本で読まなきゃ!)
戦前の日本文学であれば、「現代仮名遣い・当用漢字」の現代版は、本当の読書じゃないわけです。(旧字で読まなきゃ!)
ちなみに、なにが「本当」なのか、全くわかりませんね。
「本当の○○とは」という論理を展開する人は、だいたい知識不足です。
頭が良くない人の議論の仕方の典型ですね。
さあ、皆さん。
この私のサイト内で、「本当の○○」で検索してみようではありませんか!
私の低き知性がバレますよ!!
「あ、こんなに頭が悪くても、エラそうに文学や哲学について書いていいんだ」
という勇気が、あなたに与えられます!
ぐぐっ、20件ほどヒットする……。
これも単なるこけおどしなので、あなたが理解する必要もありません。
方法その3 徹底的にムダな本を読む
徹底的に無駄な本を読む。
これは「静かなる抵抗」「柔和な軽蔑」といった対応です。
「華麗にスルー」とも言います。
要するに、全然気にしないわけです。
むしろムダな本に異常に詳しくなると、ユニークな価値が生じます。
ぎゃふんと言わせるには、量をこなすわけです。
夏目漱石や森鴎外の代表作は読んでます。
『三四郎』と『雁』が好きです。
あと、三島由紀夫『潮騒』も好きです。
新潮文庫ってとってもいいですよね。
こんなの全然すごくない。
「ふーん。」くらいです。
でも?
特に、翻訳小説が好きなんです。
『レミゼラブル』と『モンテクリスト伯』は黒岩涙香の翻訳で読みました。
『小公子』は若松賤子訳がいちばん素敵です。
森田思軒訳のジュールヴェルヌ『十五少年』の岩波文庫持っています。
これはすごい。
「おお、こいつ、かなり信念持っているな」となりますよね。
明治期の翻訳小説なんか、いま読んだって、無駄です。
誤訳は多いは、すさまじい改変が入っているわ。
著作権なんか存在しない時代ですから。
無手勝流の、豪傑翻訳なんて言われています。
『ああ無情』なんて、コゼットが小雪ですよ。
(正直、黒岩涙香のネーミングセンスは天才。「コセツ」と読みそうになる)
でも、そういう無駄を極めるというのは、本当にすばらしいことだと思いませんか?
まとめ 昔は漱石を読んでも説教された
夏目漱石が売れっ子だった当時は、
「最近の若者は漱石のような小説ばかり読んで、ちゃんとした本を読まなくて困る」
などと言われたそうです。
よく考えてみたら、漱石なんてろくな話じゃありませんね。
『草枕』の話
「読書観の違い」というものがあります。
- 読書をいいものだと思っている
- 読書は知識を得るためのものだと思っている
- 読書を娯楽としてとらえている
各人が、読書について、一定の態度があると思います。
おおきくいって3つですね。
- 教養としての読書
- 娯楽としての読書
- 道具としての読書
教養としての読書は、文学とか哲学とか人文系のが好きな人ですね。
娯楽としての読書は、まんがとか、エンタメ小説など。
道具としての読書は、これは実用書ですね。
それぞれは、互いに独立していますが、各人のなかでは混ざり合っています。
誰だって、3つの読書を使い分けているわけです。
どれが高尚とか、どれが役に立つとか、そういう貴賤はありません。
大切なのは、読書の態度を、理解することですね。
本を読むと、他人に優しくなれます。
理解と受容が読書の効用なのですから。