アリストテレス自身による入門書『哲学のすすめ』を読む

      2017/03/01

古代ギリシア哲学、プラトンの弟子にしてプラトンと肩を並べる巨人アリストテレス。そのアリストテレス自身による哲学入門が残されています。

彼の作品はプラトンのように全てが残されているわけではありません。アリストテレスはプラトンと同じように対話篇を書いていた、という記述があるのですが、現在残っているのは『ニコマコス倫理学』『政治学』『魂について(通称デ・アニマ)』など、彼が開いた学園での講義録が主です。

そんななかで『哲学のすすめ』は、当時の一般市民向けに書かれたもののうち、不完全ながらほとんど唯一残っている作品です。

 

日本語訳は以下です。

アリストテレス『哲学のすすめ』(廣川洋一訳、講談社学術文庫、2011

アリストテレスの著作全体や入門書の紹介はこちら↓

アリストテレス著作と入門書まとめ~政治学から形而上学まで

『哲学のすすめ』について

この作品は、当時の哲学学徒ではなく、当時の一般の人々に向けて書かれたものとのことです。それならば、哲学に興味のある人はもちろん、哲学の「て」の字も知らない人々も読んだはずでしょう。(当時は市民はみんなふつうに哲学書を読んでいたように思えます。アナクサゴラスという哲学者の本が二束三文で売っていて誰でも買える、というような記述があります。)

 

それでは、大哲学者アリストテレスは一般の人々にどのように「哲学のすすめ」をしたのでしょうか。

 

基本的には「われわれは哲学すべきである」と言う主張をごり押ししています。この主張のために、色々な意見や論理を展開していくような筋立てです。

 

第一章は「哲学は知恵の所持であり、知恵はあらゆるもののうちで最大の善である。しかも獲得は容易であり、哲学への傾倒は快い」などと言っています。なんだか悪徳商法のような旨い話です。

 

興味をひいた記述は第三章です。

さて、すべての人にとって、少なくともこのことだけは明らかである。すなわち、人びとのうちでも最大の富と権力を手にしてはいるが、理知を欠き、正気を失ったまま生きるというのであれば、そのような生を選ぶものはひとりとしていないだろう。たとえ激しさこのうえない快楽に歓喜しながら生きていこうとしても、このことにはかわりはない。

してみると、すべての人びとがとりわけ避けようとしているものは、知なき状態であるように思われる。なぜなら、たとえ人が一切のものをもっていても、思考する力に欠陥があり病的であるとするなら、その人の生は望ましいものではないからだ。

だから、すべての人は理知をはたらかすことを味わい知ることができるかぎり、これに比べるなら他のものは無にひとしいと考えるのであって、まさにこのゆえにこそ、われわれの誰ひとりとして、生涯を通して、酔っぱらいのままに過ごしたり、子供のままで過ごしたりすることには耐えられないのだ。

アリストテレス『哲学のすすめ』(廣川洋一訳より)

 

「理知をはたらかす」こと以外は「無にひとしい」と、非常に簡潔な論理で言ってのけています。つまり、何をどれだけ手にしていても、知を欠くことを望まないのなら、知以外のものの価値は無にひとしいと言えます。

 

しかし直後の議論は少々おかしな方向へ進んでいきます。

さらに、多くの人びとが死を忌避するという事実もまた、魂(精神・心)が学ぶことを愛することを示している。というのは、魂は、自分が知らないもの、暗いもの、明らかでないものを避け、その本性上、明瞭なもの、知られうるものを追求するからだ。

このことこそ、われわれが太陽や光を見ることができるようにしてくれた人びと、すなわち父や母を、最大の善いものの原因として、なによりも尊び敬わなければならないと主張する、とりわけの理由である。父や母は、われわれが理知をはたらかしたり見たりすることの原因であると思われるからだ。

アリストテレス『哲学のすすめ』(廣川洋一訳より)

 

突然、父母を敬う話になります。しかもその理由がふつうではありません。魂の本性(明らかなものを好み追求すること)の手助けをしてくれたから、父母を敬うということでしょうか。

しかし、こんな理由で両親を敬いなさいと言われて、説得される人がいるでしょうか! それでは哲学をしない者は、父母を敬っていない・親不孝者になってしまうのでしょうか。

 

また話が変わって、一転冷めた視点で語りだします。内容は易しいので、堅苦しさに惑わされないようにしましょう。

 

理知を働かすことで人は、人びとに偉大なことであると思われているすべてのものが、たんなる影絵にすぎないことを見出す。

人間はまったくの無であり、人間のかかわることがらに確かなものはない(略)ものを鋭く見ることができたとするなら、人間がいかに劣悪なものから成り立っているかを見てとる以上、その眺めを見るに堪えるものと思うようなことがありえようか。なぜなら、永遠なるものを何か見た人にとっては、この種のことがら(名誉など)を熱心に追い求めることは、愚かなことだからだ。

人間的なことがらの中で、いったい何が偉大なものであり、何が永続的なものであるのだろうか。われわれのうちのいったい誰が、これらの事態を見てとったうえで、なお自分たちは幸福であり祝福されている、と思うことができるだろうか。

魂は罪の報いを受けているのであり、われわれはある大きな罪の懲罰を受けるために生きているのだ、という古人の言葉は神の霊感に満ちたものだ。

アリストテレス『哲学のすすめ』(廣川洋一訳より)

 

アリストテレスから、このようなある種の文学的表現が聞かれるのは意外です。

 

しかし主題に戻りましょう、いよいよ哲学が必要だという結論が出てきます。驚きの結論ですので注意して読んでください。

 

われわれの所有しているものの中で、ただこれ(知性と理知)だけが(少なくともある程度)不死であり、これだけが神的なものと思われる。そして、この能力に与(あずか)ることができることで、われわれの生は、それが本来悲惨で、困難なものであろうとも、なお賢く整えられていて、他のものに比べれば、人間は神であると思われるほどなのである。

したがって、われわれは哲学すべきであるか、それとも、生きることに別れを告げてこの世から立ち去るべきか、そのいずれかである。それというのも、他の一切はなにかまったくとるにたらぬもの、愚かしいものと思われるからだ。

アリストテレス『哲学のすすめ』(廣川洋一訳より)

 

哲学しない人生に意味はないというアリストテレス

「したがって、われわれは哲学すべきであるか、それとも、生きることに別れを告げてこの世から立ち去るべきか、そのいずれかである。」

アリストテレスによると、哲学するか、さもなくば悲惨なことしかないから生きていないほうがいいそうです。

これは現代からすればギャグとしか思えませんが、もしもこの作品が、哲学の「て」の字も知らない一般人も対象にして書かれているならば、どんな反応を受けたのでしょうか。気になります。

 

とはいえ、この一節は重要であり、ギャグで流す前に慎重に考える必要があります。実際、人生は悲惨なことしかないという主張が真実であって、それがよく分かってしまった暁には、確かに哲学するしかないようにも思えます。

反対に、この主張が誤りであって、人生は悲惨ではなければ、哲学はまさに冒頭で示したように悪徳商法と同じであって、手を出してはいけないものです。

「あなたの人生はこれから先不幸に満ちあふれている。だから哲学をやりなさい。哲学以外に価値はない。哲学をすれば救われる」――よくありそうな文句ではないですか。

 

それゆえ、まず必要なのは、私たちひとりひとりが、人生についてよく反省し、本当に人生が悲惨かどうかを明らかにすることだと思います。

ここをもう少しアリストテレスは説明してほしかったですね。人生の悲惨さについて、読者が納得できない限りは、読者が熱心に哲学することはありえないし、この作品も先ほど述べたように、単なるギャグになってしまうでしょう。

 

 - ギリシア・ローマ哲学 ,