遠藤周作『沈黙』小説の面白さとキリスト教思想の問題点

      2017/03/01

遠藤周作『イエスの生涯』

 

遠藤周作『沈黙』の映画化によせて

遠藤周作の『沈黙』がスコセッシ監督によって映画化された。

遠藤周作の作品の多くに流れる思想というか考え方は単純だ。

とにかく「弱者が苦しんで苦しみぬいた末に挫折して、悪いことしちゃったって後悔して自己嫌悪して、それでもなんか大いなるものに許される」みたいな話である。

 

『留学』にしても『沈黙』にしてもそうだ。

主人公なり主要人物は、弱虫。無力。無能。弱者。それがフランス留学して全然成功しないだの、拷問に負けて信仰を捨てちゃうだのといった話だ。

まあ、ナヨナヨした話だ。不幸や弱さの切り売り。そりゃおもしろいし、申し訳ないけど人気が出る。

というか、『留学』も『沈黙』も『深い河』も、読書感想としてはかなりおもしろい小説だと自信をもって言える。

 

遠藤周作のイエスは無力な男。奇跡など起こせない

遠藤周作は、『沈黙』を1966年に発表。

70年代になり、『イエスの生涯』および『キリストの誕生』という、小説ではない、学術研究のスタイルで書かれた本を出版する。

そこで遠藤周作は、イエスを全くの無能な男であるように描いている。twitterで批判している方がいらっしゃったので紹介する。

この方がおっしゃるように、遠藤周作はイエスの奇跡を明確に否定している。これは、ちょっと考えられないことである。

たとえば「奇跡が事実かどうか、自分には判定できない」というのなら分かる。だがこれほど断言できる遠藤周作のイエス理解は不可解だ。

 

田川建三という聖書学者が、遠藤周作の『イエスの生涯』についての書評でこう論じている。

遠藤の「イエス」は終始一貫、頑強に、絶対に奇蹟など行わなかった人物なのである……これこそ、古代人の奇跡信仰に対して、近代人の通俗的心情からけりをつける視点にほかならない。

田川建三『宗教とは何か』(洋泉社)

奇跡を行わないイエスを描くことによって遠藤周作が言いたかったことは単純である。

イエスは奇跡など行わず、ただただ当時の世界で抑圧されていた弱い人間(病人とか)に愛を与えた。

現世利益を求める大衆など意に介さず、ただ愛をもって弱者に接したのだ。

およそ、こんなところであろう。

 

だがそれは、弱者のための思想でもなんでもない。古代の世界の思想を無視した、現代人受けする遠藤周作的な思想に過ぎない。

 

聖書でイエスを裏切って苦しんだ人物は、イスカリオテのユダだけ

田川建三の指摘は実に興味深い。

イエスに対する裏切りの自責の念に責めさいなまれた人物の話は、新約聖書中に一個所だけ出てくる……イスカリオテのユダが首をつって死んだ話である。

……けれども悲惨なことに、あるいは遠藤にとっては皮肉なことに、このように本当に裏切りの自責の念に責めさいなまれた人物のもとには、復活したイエスは現れない。

『沈黙』の著者はくり返し、くどいほどくり返して、裏切者キチジローを赦し続ける。福音書記者マタイは情容赦もなく、ユダに自殺させてしまう……どちらが近代日本人の趣味に合うかは別問題である。

田川建三『宗教とは何か』(洋泉社)

 

田川建三によるこの指摘は、遠藤周作の思想を浮き彫りにさせる決定的な指摘である。

『沈黙』におけるキチジローと、マタイ福音書におけるユダ。どちらも裏切り、自責の念に責めさいなまれたが、キチジローは赦され、ユダは赦されない。

 

だからといって小説としての『沈黙』が駄作かといえば、そうではない。むしろ、面白いし、戦後日本を代表する傑作として評価されていることは疑いえない。

(関連記事)遠藤周作『沈黙』の出版は日本中を揺るがした事件だった

 

ただし、遠藤周作を通じて、キリスト教の思想や教義を理解しようとする方がいたとしたら、それは、少し待ったほうがいいかもしれない。

 

遠藤周作は、自らの思想である「無力な人間が自己嫌悪してたら赦される」みたいな考えを、あらゆる作品で表現している。

それは小説としては傑作なのだが、『イエスの生涯』のようにイエスその人に「自己肯定の居直りの思想」(田川建三評)を投影することもある。

 

特に今回のスコセッシ監督による『沈黙』の映画化をきっかけに、遠藤周作を通して、キリスト教の何かしらに触れる機会を持つ方が増えるだろう。

そういう方には、『沈黙』は遠藤周作の思想の表明であって、キリスト教の教義や思想とは区別したほうが、おそらく安全だと思う。

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