与謝野晶子の性格と経歴の代表作は?生い立ちとエピソードが面白い




歌人として有名な与謝野晶子。

ご存知ですよね。

『君死に給うことなかれ』の作者として有名です。

『君死に給うことなかれ』の内容から、なんとなく平和主義者というイメージが強い人です。

でも、実際の与謝野晶子はどんな人物で、どんな人生を送ったのか、ご存知ですか?

今回は与謝野晶子について

  • 与謝野晶子の生い立ちは?
  • 与謝野晶子の経歴と生涯。死因と最期は?
  • 与謝野晶子の短歌・俳句・詩。代表作品を分かりやすく解説
  • 【逸話】与謝野晶子の性格が分かる面白いエピソード
  • まとめ 与謝野晶子はどんな人?おすすめ入門本は?

 

を紹介します。

これを読めば、与謝野晶子の生い立ちや性格、作品についてよく知ることが出来ます。

「与謝野晶子についてもっと知りたい!」「そもそも与謝野晶子について何も知らない」という人は、ぜひ読んでみて下さい。

与謝野晶子について知ることで、作品をもっと楽しむことが出来ます。

 

※この記事は寄稿文です

与謝野晶子参考文献

与謝野晶子記念館:http://www.sakai-rishonomori.com/yosanoakikokinenkan/

ツール・ド・さかい:http://www.for-you.co.jp/tour_sakai/akiko/history.html

『与謝野晶子』 著:松村由利子 出版:中公叢書

 

与謝野晶子の生い立ちは?

与謝野晶子は、明治時代から昭和初期まで生きた人です。

具体的には、

  • 明治11(1878)年12月7日、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町西1丁)で生まれる
  • 昭和(1942)年5月29日、東京府東京市杉並区落窪で亡くなる

 

63年の人生を生きました。

与謝野晶子は、和菓子屋「駿河屋」を営む父・宗七と母・津祢の三女として生まれました。

  • この時、与謝野晶子の本名は「鳳 志よう(ほう しょう)」です。読むのが難しい名前ですね。
  • 与謝野晶子という名前は、後に与謝野鉄幹と結婚して執筆活動を始めた時に作ったペンネームです。
  • 本名の「志よう(しょう)」を「晶」の字にしてもじったペンネームなのですが、ここでは分かりやすく与謝野晶子で統一します。

 

与謝野晶子の兄弟は、上に兄と姉が2人ずつ、弟が1人と妹が2人という8人兄弟です。

与謝野晶子が生まれた時には、実家である「駿河屋」の経営が段々傾いており、両親は子どもたちを必死に育てていました。

その中でも、与謝野晶子を含めた女兄弟たちは、特に両親からは目を掛けられていた訳ではないようです。

というのも、当時は

  • 女の子は大人になればお嫁に行く
  • お嫁に行った先の労働力になり、実家に金銭的な援助をすることはない
  • また、出世は基本的に男性のみがしていて、女性が出世をすることはない

 

環境だったため、両親が男の子に目を掛けて十分な教育を施すことがあっても、

女の子に同じようにすることは滅多になかったからです。

  • しかし、与謝野晶子の実家は経済的に困り始めていたといっても、当時としては中流家庭でした。
  • そのため、男兄弟に比べて目を掛けて貰えなかったとしても、ある程度の教育を受けることは出来ました。
  • 実際、家業の和菓子屋を手伝いながらではありましたが、女学校にも通っています。

 

また、与謝野晶子はとても賢い子どもでした。

というのも、

  • 9歳から漢学塾に通い、朱子学や儒学を学んだ
  • また、琴や三味線などの教養も身につけた
  • 11歳で堺市立堺女学校に入学し、家業を手伝いながら父の書物や『源氏物語』、樋口一葉や尾崎紅葉などの有名な文豪の作品を読みふける
  • 特に正岡子規の短歌に衝撃を受ける

 

少女時代を送りました。

  • 朱子学や儒学は、昔から中国や日本で学ばれていた現在でいう「道徳」や「倫理」「現代社会」どの科目に当たる内容です。
  • 当時の女の子は琴や三味線、書道、算術(算数)などを学ぶことはありましたが、
  • 朱子学や儒学などの教養を学ぶことは珍しかったのです。

 

幼い頃に学んだこれらの教養は、後に与謝野晶子が執筆活動をする際に活かされることになります。

賢くて家業を手伝いながら、学校に通って本を読みふける日々を送る少女と聞くと、

「与謝野晶子って大人しい文学少女だったの?」とイメージしますよね。

全く違います。

 

大人しい文学少女どころか、我が強くて情熱的で、自分の生き方を貫き通す性格という女性でした。

実際、

  • 正岡子規の短歌に影響されたことから、10代の頃から短歌の創作を始め、雑誌に応募していた
  • 与謝野晶子が22歳の時に、彼女の短歌は当時の若者に支持されていた文学美術雑誌「明星」に掲載された
  • 文学美術雑誌「明星」は、感情や作者の主観に重点を置く浪漫主義をテーマにしており、
  • 合理性や論理性を重視したそれまでの文学に革新を起こそうとしていた文学雑誌だった
  • 与謝野晶子は青年文学会に参加していた

 

という、当時の少女としては活発に文学活動を行っていました。

  • また、文学界で新しく出た浪漫主義の雑誌に短歌を応募していることから、
  • 古典的な文学ではなく革新的な文学を執筆していたことが分かります。
  • これらの執筆活動から、積極的に活動する女性であったと言えます。

 

そして、与謝野晶子の活動的な性格を象徴するような1つの事件が起こります。

その事件をきっかけに、与謝野晶子は文才を開花させていきます。

 

与謝野晶子の経歴と生涯。死因と最期は?

では、与謝野晶子はどんな事件を起こしたのでしょう?

ちなみに警察のお世話にはなってませんので、そこは安心して読み進めて下さい。

 

与謝野晶子は文学雑誌『明星』に短歌が掲載されてからも、青年文学会に積極的に参加していました。

  • 明治33(1900)年のある日、東京で文学雑誌『明星』を出版していた与謝野鉄幹という男性が、
  • 関西に『明星』の宣伝のために来ることになりました。
  • 『明星』は浪漫主義の文学の中でも短歌を主に扱っていましたが、新しい文学の挑戦であったため、
  • 多くの人に浪漫主義を知ってもらう必要がありました。

 

そのため、主催者である与謝野鉄幹が関西で文学会を開いたのです。

ちなみに与謝野鉄幹はこの頃すでに詩人として本格的に活躍しており、

「与謝野鉄幹」という名前は彼のペンネームで、本名は与謝野寛と言いました。

ここでは与謝野鉄幹で統一します。

 

さて、与謝野鉄幹が関西で文学会を開くということを聞いた与謝野晶子は、もちろん出席しました。

  • そこで与謝野鉄幹を見た与謝野晶子は、彼に一目惚れをしてしまったのです!
  • 当時の与謝野鉄幹は、スマートな容姿に機知に富んだ話術で、人を惹きつける魅力がありました。
  • その上彼が作る短歌には、「虎の鉄幹」や「剣の鉄幹」という異名が与えられる程の鋭さがありました。

 

事前に鉄幹の才能溢れる短歌を読んでいた与謝野晶子が、実際に彼に会ってたちまち恋に落ちたのも無理はありません。

一方、与謝野鉄幹の方も晶子の文才を見抜いていました。

そのため、「与謝野晶子の才能をぜひとも『明星』に引き込むことが出来たら良いのに」と考えていました。

その上で実際に彼女に会った鉄幹は、晶子に好意を抱きました。

 

いわゆる両想いです!

しかし、ここで1つ問題がありました。

なんと、与謝野鉄幹には既に妻子がいたのです!

 

好きになった男の人に妻子がいたらどうするか、女性は悩ますよね。

  • 現在でも「家庭があるなら諦める」と身を引く人と、
  • 「家庭があっても好きな人は好き!諦めない!」という昼顔タイプの人と、
  • 状況によっては「離婚するのを待つ」という計算高いタイプの人がいます。

 

本当にここは人によって分かれますよね〜。

その内ドロドロの愛憎劇に突入してしまう人もいるので、恋心は上手く制御できない物です。

  • というか鉄幹さん、妻子ある身でなんで他の女性と両想いになってるんですか…。
  • 「妻と子どもの気持ちを考えたら、せめて離婚という区切りをつけてからにしなさい!」と女性である私は言いたくなります。
  • 不倫関係って何故だか女性だけ責められることが多いですねよ。男性の非は無視して。

 

話は逸れましたが、与謝野晶子はこの中でなんと「家庭があっても好きな人は好き!諦めない!」昼顔タイプの人でした。

  • 「え⁉︎文学少女っていう生い立ちなのにそんな大胆な!」と驚きますよね。
  • しかしそこに与謝野晶子の迷いは微塵もありませんでした。むしろ清々しいくらいに悩んでいません。
  • すぐに、与謝野晶子は鉄幹を追って実家を飛び出し、上京してしまいました。

 

中流家庭の文学少女だった与謝野晶子が、一途な恋とはいえ不倫のために上京するのはびっくりしますよね。

しかも、当時の女性は控えめで大人しい姿を求められていました。

周囲の人の驚きは、現代人である私たちの比ではなかったはずです。

 

しかも、与謝野晶子は上京の2ヶ月後、鳳晶子(おおとり あきこ)のペンネームで初めての歌集『みだれ髪』を出版したのですが、

この歌集の内容がさらに世間を驚かせます。

その理由は、

  • 女性の官能が描かれている
  • 男女が閨(ねや)の中で交わす言葉が織り込まれている

 

という前代未聞の短歌集だったからです。

 

先ほど軽く触れましたが、当時は

  • 控えめ
  • 大人しい
  • 自己主張しない
  • 男性の3歩後ろを付いて歩く
  • 親や両親、子どもに尽くす
  • 良妻賢母

 

な女性像が理想の姿とされており、多くの女性たちは「こういう女性になるように」と幼い時から教育を受けていました。

 

与謝野晶子は、『みだれ髪』の中で女性が

  • 1人の人間としての気持ちを持つこと
  • 自分に正直に生きることの素晴らしさ
  • 恋愛も結婚も自分の意志を貫き通すことが出来ること

 

を描き、従来の女性像を打ち破ったのです。

これには、保守的な人々から「けしからん!」という批判も当然出ます。

 

  • ですが、世間の尺度を押し付けられて窮屈な思いで生きてきた女性や少女たちの間では、『みだれ髪』は大人気になりました。
  • 躾に厳しい家庭の娘でも、『みだれ髪』を持っている友達に家の外でこっそり見せてもらい、夢中になって読み耽っていた程です。
  • 『みだれ髪』の短歌に込められていたのは、不倫でも愛を貫き通している与謝野晶子の情熱的な想いでもありました。

 

彼女の想いは、当時の女性や少女たちに響く物でもあったのです。

愛する人を追った上京と前代未聞の歌集の出版という2つの事件を経て、与謝野晶子は一躍有名な歌人となります。

 

私生活では、明治34(1901)年に、与謝野鉄幹が妻と離婚して、妻子は妻の郷里である山口県徳山に帰ることになりました。

その翌年、与謝野鉄幹と晶子は結婚します。

  • いわゆる略奪婚ですね。
  • ここは人によって与謝野晶子の好き嫌いが分かれる部分ではありますが、
  • 明治という時代に自分の意志を貫き通す女性という姿勢が彼女の魅力になり、作品の人気が出たのは間違いありません。

 

話は逸れますが、私自身は同じ女性として略奪婚にはあまり賛成できません。

でも、与謝野晶子はその後での夫婦生活で、夫の鉄幹がどんなに逆境に遭っても必死で支え続けました。

 

略奪婚をしたは良いけれど、逆境に陥った途端に相手と別れる人っていますよね。

  • それだと、相手はもちろん、自分が相手に別れさせたパートナーも報われないと思います。
  • 略奪する位の人だったら最後まで大切にするべきです。
  • その点では、与謝野晶子は立派な女性だと私は思いますが、皆さんは如何でしょうか?

 

では、無事に想い人と結ばれた与謝野晶子のその後の生活を見ていきましょう。

  • 結婚後、与謝野晶子は現在の東京都渋谷の道玄坂に当たる場所にあった鉄幹の家に、住まいを移します。
  • 渋谷といっても、今のように開発されている訳ではなく、当時は東京の中でも西の外れの田舎にあたり、
  • 周囲は雑木林や畑地という場所でした。

 

そこで与謝野晶子は新婚生活を送りますが、中流家庭で育った彼女は鉄幹の生活に驚きます。

というのも、

  • 雑誌を発行しているとはいえ、詩人である鉄幹の収入はわずかだった
  • 食事は一汁一菜のみ
  • 当初は与謝野晶子が実家から持って来た着物を売って生活費を工面したが、すぐに着物がなくなった

 

貧乏生活だったのです。

与謝野晶子は結婚前から詩人の収入は少ないと知っていたため、鉄幹との生活は貧しい物だろうと予め覚悟していました。

しかし、実際の夫婦生活は、彼女の予想を大きく上回る貧しさでした。

 

それでも、与謝野晶子は家計のやりくりをして、鉄幹との結婚生活を支えました。

夫婦仲も良好で、12人の子どもにも恵まれています。はっきり言って仲良すぎです…。

また、明星派(雑誌『明星』からデビューした浪漫主義の歌人)として作品を発表し続けます。

 

そんな中、明治37(1904)年に日露戦争が勃発し、与謝野晶子の弟・鳳籌三郎も徴兵されました。

「戦争で弟が命を落とすのではないか。どんな姿になっても良いから、可愛い弟が早く帰って来てほしい。」と晶子は願いました。

同じ年の9月に出版された『明星』に、彼女はその願いを込めた詩『君死にたまうことなかれ』を掲載します。

 

  • しかし、時代は「戦争で家族がお国のために命を落とすことは名誉なこと。
  • また、戦争に行くことは、天皇陛下に仕える臣民の義務である」という考えが主流です。
  • そんな中で「戦争が早く終わって、生きて弟が帰って来てほしい」という内容の詩を書いた与謝野晶子には、
  • 読者からどんな反応が返されたかはすぐに想像がつきますね。

 

「けしからん!」「与謝野晶子は反国家主義者だ!」「非国民だ!」と、多くの人々から批判の声が挙がります。

 

それに対して与謝野晶子は

  • 「自然な気持ちを詠うのが詩だ。ありのままの感情が込められていない詩なんて、詩ではない。
  • 今の戦争に賛同する風潮の方がおかしい。私は自分の気持ちを詠い続けるわ。」(意訳です)と、
  • 弁明や釈明というよりも清々しいくらいの反論をする文章を掲載しています。

 

もう「そんなこと言って大丈夫なの…?」と心配するよりも、

「よく言ってくれた!与謝野晶子さん、かっこいい!」と思ってしまいます。

  • この時は読者からの批判はありましたが、与謝野晶子自身に何らかの危険が及ぶことはありませんでした。
  • まあ、戦争反対を唱えた人を批判はできても、国家権力がそういう人たちを次々と捕まえるようになるのは
  • 30年後くらい後になるのもあったんでしょう。

 

歌人としての与謝野晶子の人気に影響が出ることもなく、相変わらず与謝野晶子は人気歌人でした。

一方、夫である鉄幹はこの頃から、詩人としてのキャリアと晶子との夫婦生活に、翳りが見え始めます。

  • 明治38(1905)年、雑誌『明星』が廃刊
  • スランプに陥り、作品の執筆が出来なくなる
  • 段々、他の出版社からの仕事も来なくなる
  • 妻の晶子は人気歌人で、男のプライドはズタズタ
  • さらに自分の収入がほとんどなく、晶子ともそのことで喧嘩になる

 

夫の収入状況と夫婦仲がこんな状態になってしまったら、離婚を選択する妻もいるかもしれません。

でも、晶子は鉄幹を見捨てようとはしませんでした。

  • 12人の子どもたちの育児と家事
  • 依頼された仕事は何でも引き受ける
  • 時には原稿料を前払いしてもらいながら、家計のやりくりをした

 

など、家族を支えるために1人でかなりの重労働をこなしていました。

よく過労死しなかったですよね…。

身体が弱い私だったら、あっという間に潰れて、生活保護を受けないといけないかもしれません。

この時代に生活保護なんてありませんけど。

しかし、晶子の凄いところは、実はこれだけではないんです。

  • 当時、貧しくて子沢山の家庭は、子どもたちの何人かを養子に出すのが普通だった
  • しかし、与謝野家は1人も養子に出そうともしなかった
  • さらに、スランプに陥っている鉄幹に晶子は「スランプで作品が書けないって言うんだったら、家で悩んでばっかりいないで、新しいことを改めて学んできたらどう?」(意訳です)と提案し、お金を工面してフランス留学に送り出した

 

「一体あなたはどこまで逞しいんですか⁉︎」と思わず突っ込みたくなるほどのことをしています。

子どもを1人も養子に出さなかったのは「それだけ子どもたちのことが可愛いかったのかな?」と想像がつきます。

  • しかし「スランプで作品が作れない」と悩んでいる無収入の夫を「それだったら他の仕事して働いてよ!」と責めるのではなく、
  • 「じゃあ留学して勉強し直したら?お金は私が用意するから。」と貧しい生活の中で提案し、
  • 本当に留学に送り出す女性がこの世の中に何人いるんでしょうか?

 

私が知る限り、歴史上の人物の妻でこんなことをしたのは与謝野晶子だけです。

  • たいていの妻は「別の仕事で稼げ」と旦那の尻を叩いています。
  • 与謝野晶子も同じ歌人・詩人として鉄幹の悩みがよく分かったことも理由なのでしょうが、懐が広すぎますよ…。
  • しかも与謝野晶子は「自分もフランスに行って勉強したい!」と思います。

 

そこで留学経験がある文豪の森鴎外に渡航費を工面して貰って、明治45(1912)年に自分も鉄幹の元へ行きます。

どんだけアグレッシブなんねん!何か突っ込むのも疲れてきました…。

 

与謝野晶子のこの行動は、当然ながら当時の人々を驚かせます。

  • 読売新聞が「新しい女」という連載を開始した時に、パリに出発しようとする晶子の様子を取り上げ、
  • 記念すべき連載の第1回目として掲載しています。
  • やっぱりインパクト大ですよ。

 

しかも、平塚らいてうを始めとした約500人もの人々が、与謝野晶子の見送りに来ています。

晶子さん、人気者〜。

 

5月19日にフランスに到着した与謝野晶子は、鉄幹と共に

  • イギリスやドイツ、
  • オーストリア、
  • オランダ、
  • ベルギー

 

などの欧米諸国へも行きます。2人は4ヶ月後の9月に帰国し、その時には欧米の男女平等の考え方に感化されていました。

帰国後に2人は

  • 一緒に執筆した書物の中で、「女性が持たなければいけない権利はたくさんあるけれど、第一に必要なのは教育の自由という権利だ。」という意見を表明
  • 他の同志と協力して大正10(1921)年にお茶の水駿河台で、日本初の男女共学の学校である文化学院を創設

 

などの社会問題に対する活動を行い、評論家としても知られていきます。

 

与謝野鉄幹は文学雑誌や歌集を発売しますが、なかなか売れ行きは伸びません。

それでも、与謝野晶子の歌集や詩、評論、2人で協力して執筆した共著の原稿料で、しばらく生活することが出来ました。

鉄幹が燻っていた時には考えられないほど、2人は力を合わせて仕事に取り組んだのです。

 

また、大正8(1919)年に与謝野鉄幹は、慶應義塾大学文学部教授として招かれ、2人の貧乏生活は終わりを告げます。

晶子さん、ここまで見通して鉄幹を留学させてたのだとしたら、恐ろしい人ですね…。

とにかく留学経験が与謝野鉄幹のプラスに働いたのは間違いありません。

他にも

  • 大正10(1921)年に第二次『明星』を創刊
  • 大正11(1922)年に鴎外全集刊行会の編集主任に着任

 

など、与謝野鉄幹に仕事が舞い込むのがこの時期なのです。

さて、生活に余裕が出てきた与謝野晶子は、この頃から生活のためではなく自分の好きなことを執筆していきます。

短歌ももちろん作っているのですが、彼女は自分が大好きな日本古典の現代語訳や解説、評論を執筆するのです。

 

当時、『源氏物語』を始めとする古典の現代語訳(大正時代の現代語訳です!)は既に出版されていました。

しかし、男性が受けてきたようなある程度の教養がないと分からないような、難解な文章で書かれた現代語訳しかなかったのです。

「もっと日本の古典文学を多くの人々に読んでほしい」と思った与謝野晶子は、分かりやすい現代語訳を書くことにしました。

 

その情熱は、大正12(1923)年に起きた関東大震災で、千枚の原稿を消失しても消えることはありませんでした。

この与謝野晶子の試みには鉄幹も協力し、大正14(1924)年に『日本古典全集』の刊行が始まりました。

日本の古典文学としては他にも

  • 『和泉式部全集』
  • 『現代語訳平安朝女流日記』
  • 『新新訳源氏物語』

 

など、多くの作品を執筆していて、気合いの入れようがよく分かりますね。

 

昭和12(1927)年に、渋谷の田舎から東京府東京市杉並区落窪に新居を建てて引っ越した後は、

旅行をたくさんして旅先で詠んだ歌が多くなるなど、余裕がある晩年を過ごしました。

 

昭和10(1935)年3月26日に、与謝野鉄幹が肺炎で亡くなりますが、晶子は作品を執筆し続けます。

 

そして昭和17(1942)5月29日に、与謝野晶子は脳溢血により亡くなります。63歳でした。

 

与謝野晶子の短歌・俳句・詩。代表作品を分かりやすく解説

与謝野晶子の短歌や俳句、詩は家族への愛情がよく分かるものばかりです。

また、「女性は男性や国家に依存するべきではなく、1人の人間として自立するべきだ」

と主張し、自分の感情や信念を大切にした人でもあります。

ここでは、そんな彼女の作品の一部を見てみましょう。

 

  • 短歌『君死にたまうことなかれ』

 

与謝野晶子と言えばこれ!っていうくらい有名です。

戦場に赴いた弟・籌三郎に向けて「君死にたまうことなかれ(弟よ、死なないで下さい)」と呼びかける内容になっています。

続けて

「すめらみことは、戦ひに

おほみづからは出でまさね、

かたみに人の血を流し、

獣の道に死ねよとは、

死ぬるを人のほまれとは、

大みこころの深ければ

もとよりいかで思されむ」

 

と書かれています。

これは分かりやすくまとめると、

  • 「天皇陛下は自分は戦場に行かないのに、兵士は他人の血を見ながら、
  • 殺し合いをして獣のように死になさい、死ぬことは名誉なことだと仰せられます。
  • もし天皇陛下の御心が寛大なものであらならば、このようなことはそもそも考えないでしょうに。」(意訳です)という意味です。

 

既に説明したように、この部分が「けしからん!」と読者に批判される部分です。

確かに、戦前にこんなことを大胆に歌にするなんて、与謝野晶子はかなり肝が座った人だったようです。

 

  • 詩集『みだれ髪』

 

浪漫派しての与謝野晶子の名声を一気に引き上げた代表作です。

この詩集には

  • 恋愛や結婚における女性の自由な感情
  • 女性の官能

 

を描いた問題作でもあります。

例を挙げますと、

「やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」

(人の道理を言い聞かせるばかりのあなたは、熱く火照った肌に触れないで寂しくないのかしら)

 

「春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ」

(人の命は永遠ではないのよと言って、私の張りのある胸にあなたを手を導く)

 

「のろひ歌 かきかさねたる 反故とりて 黒き胡蝶を おさへぬるかな」

(愛する人への恨み言を詠んだ歌を書いた紙がどんどん増えていき、復讐しようとする自分を抑えています)

 

「人の子の 恋をもとむる 唇に 毒ある蜜を われぬらむ願ひ」

(何も知らずに恋に憧れる少女たちの唇に、恋の辛さや悲しさを含んだ蜜を、私が塗ってあげたいと願う)

 

など、何ともセクシュアルで、女性の感情を包み隠さず赤裸々に描いています。

  • 現代の女性が読んでも、思わずドキッとしてしまいます。
  • ちなみに、最初の「やは肌の〜」の歌はとても有名で、与謝野晶子は「やは肌の晶子」とも呼ばれています。
  • 与謝野晶子は約5万首の歌を詠んでおり、若い時の作品には似たような雰囲気の歌が多いです。

 

現代の10代〜20代女性の読者にもファンがたくさんいます。

与謝野晶子の作品を読んでことがないという人は、一度読んでみては如何でしょうか?

 

【逸話】与謝野晶子の性格がわかる面白いエピソード

さて、歌人として有名な与謝野晶子ですが、経歴を見ても分かるように

  • 情熱的
  • 自分が決めたことは曲げない
  • 主張ははっきりとする
  • 新しい時代の自立した女性像を求めた

 

人物でした。

一方、こだわりが強く周りの視線を気にしない一面もありました。それが現れたのが何と、彼女の子どもたちの名前です。

与謝野晶子と鉄幹の間には12人の子どもたちがいます。

  • 長男 光 明治34(1901)年生まれ
  • 次男 秀 明治35(1902)年生まれ
  • 長女 八峰・次女 七瀬 明治40(1907)年生まれ
  • 三男 麟 明治42(1909)年生まれ
  • 三女 佐保子 明治43(1910)年生まれ
  • 四女 宇智子 明治44(1911)年生まれ
  • 四男 アウギュスト 大正2(1913)年生まれ
  • 五女 エレンヌ 大正4(1915)年生まれ
  • 五男 健 大正5(1916)年生まれ
  • 六男 寸 大正6(1917)年生まれ 生後2日で死亡
  • 六女 藤子 大正8(1919)年生まれ

 

もうどこから突っ込んだら良いんでしょう…。

現代のキラキラネームが可愛く思えてしまうほど、日本人離れした名前の子どもたちがいます。

  • 当時も奇抜に思われたのでしょうが、与謝野夫婦は自分たちが影響を受けた作品から子どもたちの名前をつけていました。
  • そのため、時々外国人のような名前もつけていたのです。
  • 周りにどう思われようと、こだわりを貫く性格だったんですね。

 

また、与謝野晶子は温泉巡りが大好きだったという逸話も残っています。

生活に余裕が出てきた晩年に、彼女は全国の温泉地を旅行しています。

それも有名どころの温泉だけではなく、「こんな秘境の温泉に来たの⁉︎」と驚くような場所にも行ったのです。

好きなことには本当に積極的になる人なんですね。

 

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まとめ 与謝野晶子はどんな人?おすすめ入門本は?

与謝野晶子の性格と経歴、作品、エピソードについて紹介しました。

ここで簡単に、与謝野晶子についてまとめておきますね。

  • 明治〜昭和初期に活躍した女性歌人である
  • 与謝野鉄幹との不倫の末の結婚や『みだれ髪』で詠った女性の赤裸々な恋心と自由、『君死にたまうことなかれ』の軍国主義の風潮に反する内容など、他人の目を気にせずに書きたい物を書く歌人だった
  • 鉄幹がスランプに陥っていた時、一家の大黒柱を務め上げた
  • そんな貧乏生活の中、鉄幹と2人で欧米に留学する行動力があった
  • 日本の古典文学と温泉が大好き

 

与謝野晶子は、旧来の女性像に囚われず、新しい時代の女性像を追い求めたパイオニアだったんですね!

そんな与謝野晶子の作品は、現代語訳がたくさん出版されています。その中で、初心者でも与謝野晶子の世界に入ることができる本を紹介します。

  • 『チョコレート語訳 みだれ髪』 訳:俵万智子 出版:河出書房出版

 

五七五七七の短歌の形を崩さないで、俵万智子による独特な表現で現代語訳がされています。

堅苦しくなく、楽しく時には面白く感じながら、与謝野晶子の歌を楽しむことが出来ます。

 

  • 『与謝野晶子(コレクション日本歌人選)』 作:入江春行 出版:笠間書店

 

与謝野晶子が18歳の時に詠んだ、あまり知られていない歌も含まれている歌集です。

有名な歌も含まれていますが、年代順に歌が収録されていないので、パラパラとめくって開いたページから読むのも楽しいです。

ぜひ、与謝野晶子のロマン溢れる世界に触れてみて下さい!

以上、「与謝野晶子の性格と経歴の代表作は?生い立ちとエピソードが面白い」でした。

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